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「みんなそうしている」は理由になるのか?

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同じような二軒の店が並んでいる。

片方には人がいて、もう片方にはほとんどいない。何も知らなければ、人のいる店を選びたくなる。自分で確かめる手間を、人の選択に少し預けられるからだ。「みんなと同じようにする」は、ずいぶん負担が少ない。

普通という言葉にも、妙な力がある。たくさんの人がしていることを指しているだけなのに、いつの間にか「そうするのが正しい」というところまで話が進んでいる。

けれど、人の集まりには、見えているものと見えていないものがある。並んでいる人は数えられる。けれど、並ばなかった人や、何も言わずに帰った人のことは、数字になりにくい。

それでも私たちは、目の前にあるものを「みんな」と呼ぶ。

もしかすると、「みんな」は人の集まりというより、私たちが作っている一つの像なのかもしれない。

その像を見ながら、何を判断しているのだろう。

「みんなそうしている」は理由になるのか

「みんなそうしている」は、それだけで理由になるわけじゃない。ただ、なぜ多くの人がそうしているのかを考えるための手がかりにはなる。

「みんなそうしている」と言われると、ついそれだけで理由が通ったように感じる。けれど、そこには「多くの人がしている」という事実と、「だから自分もそうすべきだ」という判断が、いつの間にか重なっている。

そもそも、この二つは同じ話なのかな。

理由には「説明」「動機」「正当化」がある

さっきのハンコの話に戻るよ。

「理由」という言葉は、一種類じゃない。少なくとも三つ、別々の仕事を混ぜて呼んでる。

ひとつは説明。どうして今、そうなっているのか。ハンコが三つ並んでいるのは、前からそうで、周りもそうしているから。これはそのとおりだと思うよ。「みんなそうしてる」は、現状の説明としてはちゃんと働く。

もうひとつは動機。自分がどうしてそうするのか。自分だけ二つで出したら目立つかな、とか、余計なことを聞かれたくないな、とか。そういう気持ちが、手を動かす。「みんなそうしてる」は、ここでもかなり強い。

三つめが正当化。ハンコは三つ押すのが妥当だと言えるだけの根拠。何のために三つなのか、二つだと何が起きるのか。……ここは、「みんなそうしてる」だけでは足りない。みんながそうしていることに意味がある場合でも、その意味を支える別の理由が要る。

新人が黙ったのは、たぶんこのせいだよ。聞きたかったのは三つめなのに、返ってきたのは一つめだった。返ってきた答えに嘘はないんだよ。ただ、聞かれたことの隣の話をされてる。

理由になるのか、と問うとき、私が気にしているのは、いちばん最後の正当化のこと。前の二つに関しては、「みんな」という言葉は、わりと働き者だから。

「みんな」は正しさを証明しない

多くの人がそう考えている。だから、そう考えるのが正しい。

並べると自然に繋がって聞こえる。でも、間にはひとつ、口に出されない前提が挟まってるんだよ。この件については、多くの人の判断は当てになる、という前提。

多くの人が信じていることを、そのまま正しさの根拠にしてしまう形を、論理学では衆人に訴える論証と呼ぶ。名前がついているくらいだから、それだけよく使われるってことなんだろうね。

分かりやすいのは、結論が合っている場合。みんなが言ってるから、二たす二は四。結論は正しい。でも、この理由は何も支えてない。計算をやり直せば済む話で、人数は一度も出番がないから。

でもね、だからといって「多数派は当てにならない」の側に倒れるのも、同じくらい雑なんだよ。前提が抜けていることと、前提が成り立たないことは、別の話。

その前提が成り立つかどうかは、人数だけを数えても分からない。誰が、どんな情報を持っていて、どのくらい自分で確かめたうえで判断しているのか。そこまで見て、初めて「みんな」の中身が少し見えてくる。

「している」と「すべき」は別の話

先輩たちは、たいてい8時まで残っている。

これは、たぶん事実。

そこから「だからあなたも残るべきだ」へ行くには、もう一歩要る。今日の仕事は終わっているのか。残ることで何が進むのか。8時まで残ることに、誰の何が懸かっているのか。目的とか、事情とか、そういう別の材料が。

「している」のほうは、見れば分かる。
「すべき」のほうは、見ても分からない。

決めるのは、何を大事にしたいか、のほうだから。

……なのに、この二つはよく一つの文の中で重なる。「普通は残るものだよ」と言われたとき、それは今の様子を教えてくれているのか、残れと言っているのか。言った本人にも、たぶん境目はない。普通とか常識とかいう言葉は、そういうふうに便利にできてる。

「みんな」の押しの強さは、人数よりも、こっちにあるのかな。

事実として話しはじめたはずの言葉が、いつのまにか「すべき」の側へ滑っている。

多数決と正しさは別の話

遠足の行き先は、多数決で決めていい。

意見が割れたまま誰も動けなくなるより、どこかで決めて先へ進んだほうがいいから。多数決は、そのための道具で、よくできてるんだよ。

ただ、7×8を多数決で決めたらどうなるか。クラスの過半数が54に手を挙げたとする。決まったことには、なる。でも答えは56のまま。

多数決が受け持っているのは、決めて進むところまで。どれが正しいかを調べる仕事は、最初から入っていない。

……ただ、そう言い切ってしまうと、ひとつだけ引っかかるんだよね。

知らない街を歩いていて、知らないお店の前に人が並んでいたとする。あのとき、足が少し止まる感じ。あれは、何なのかな。

「みんな」は判断の材料になる

「みんな」は、正しさを決める答えにはならないけれど、判断を始める手がかりにはなる。自分だけでは確かめにくいことなら、すでに判断した人たちの選択には、無視できない情報が含まれている。

問題は、人数そのものより、そこにどんな情報があるかなんだろう。

自分で確かめにくいことは、他人の判断が参考になる

知らない街の、知らないお店。看板に見覚えはなくて、口コミも見ていない。通りの向こうまで、十人ほどの列が伸びている。

あの列を見ると、少し足が止まる。何を読んでいるのかなと考えてみると、他人の判断なんだよね。十人分の「並んでもいい」が、目に見える形で立っている。

7×8は、自分でやり直せる。お店の味は、食べるまで分からない。食べてから外れだと分かっても、並んだ時間も払ったお金も戻らない。確かめるのに高くつくものほど、先に確かめた誰かの痕跡が役に立つ。

行列は、その痕跡の一つ。口コミも、星の数も、カウンターに座る常連の慣れた手つきも、そうだよ。

もちろん、行列があるからといって、必ず美味しいわけじゃない。並んでいる十人の舌が自分と同じかどうかは、まだ分からないし、話題になったから並んでいるだけの人だってきっと混ざってる。

それでも、何も見えていない状態と、列が見えている状態を比べたら、”手がかりが多い”のは後者。

借りているのは、判断を始めるときの一歩目。歩くのは、そのあとの自分だよ。

「どんな人たちか」で「みんな」の意味は変わる

みんな絶賛の激辛ラーメン、という店があったとする。

列に並んでいるのは、辛いものを求めて集まった人たちだよね。辛さが苦手な自分が、その「絶賛」をそのまま受け取ったら、たぶん汗だくで後悔する。十人の判断が悪かったわけじゃない。あの十人は、最初から自分とは違う問いに答えていただけ。

「みんな」と言うとき、そこに誰が入っているのかは、たいてい見えない。人数だけが前に出て、顔ぶれは後ろに隠れている。

そもそも、「みんなと同じ」の「同じ」も、一つじゃない。

  • 意見が同じなのか
  • 行動が同じなのか
  • 選ぶものが同じなのか

行動だけは同じでも、そこに至った理由は、ばらばらかもしれない。

だから「みんな」を見るときは、何人いるかだけじゃなく、何が同じなのかも見ておきたい。

ホテルのタオルの研究が、この感じをよく見せてくれるよ。

Goldstein、Cialdini、Griskevicius(2008)は、客室の浴室に置くカードの文面を変えて、タオルの再利用がどう変わるかを調べた。

環境保護を訴えるだけのカードより、「他の宿泊客もタオルを再利用しています」と伝えるカードのほうが、再利用を促した。

さらに、「この部屋に泊まった人たち」のように、”より身近な集団の行動を示す文面”のほうが効果が強かった。

ここで効いているのは、単純な人数の多さだけじゃない。

”自分と距離の近い人たちがどうしているか”が、「自分もそうしたほうがよさそうだ」という規範として働いているんだよね。

同じ「みんな」でも、誰を指しているのかで、その力は変わる。

聞き返して、ちゃんと顔ぶれが見えたなら、その「みんな」は、手がかりとして使いやすくなる。

見えなかったなら、その見えなさも、一つの情報だよ。

だから、「みんな」を判断材料にするときは、人数より先にいくつか見たくなる。

自分と条件が近い人たちなのか。そもそも自分では確かめにくいことについての判断なのか。その人たちは、それぞれ自分の情報を持って判断しているのか。それとも、誰かの判断が後ろへ後ろへ伝わって、人数だけが膨らんでいるのか。

「みんな」を使うというのは、人数を信じることじゃない。その中身を少し確かめてから、手がかりとして借りることなんだと思う。

「みんな」と同じであることは悪くない

駅の通路で、人の流れができている。

向かいから来る人とぶつからないように、みんながなんとなく”同じ側”へ寄る。誰か一人だけ反対側を歩いていたら、それだけで少し歩きにくくなる。

だから、「みんなと同じだから、自分も同じにする」が、この場合はちゃんと役に立っている。さっき「みんな」は正当化には足りないと言ったのに、矛盾して聞こえるかな。でも、ここでは揃っていること自体が、目的の一部なんだよ。

言葉もそう。

りんごを「りんご」と呼ぶのは、その音がりんごにふさわしいからじゃなくて、みんながそう呼ぶから通じるだけ。通貨も、信号の色も、電車の乗り方も。同じであることが、そのまま仕組みの中身になっているものは、けっこう多い。

だから、みんなと同じであること自体に、良いも悪いもない。引っかかるのは、「同じであること」以外の理由が何も見えないときなんだよね。

ハンコが三つ要る書類のことを、もう一度考えてみる。あれは、揃っていること自体に意味があるのかな。それとも、誰かが困った日の名残なのかな。

左側通行は、理由を辿れる。ハンコの三つ目は、どうなんだろうね。

……誰が最初に、三つにしたんだろう。

「みんな」はどうやってできるのか

ただ、目の前にある「みんな」が、そのまま独立した大勢の意見を表しているとは限らない。誰かの判断を見て選んだ人が増えていたり、声を上げない人が数から抜け落ちていたりする。見えている一致の裏側には、別の形もある。

100人が同じでも、100個の判断とは限らない

初めて来た商店街に、向かい合った二軒の定食屋がある。どちらも、まだ客はいない。

最初の人は、何となくの勘で右の店に入る。暖簾の色とか、出汁の匂いとか、自分でもうまく説明できない程度の手がかりで。

二人目が来る。右の店には一人いて、左は空っぽ。自分の勘は左に傾いていたかもしれない。それでも、”先に入った人がいるなら”と、右に入る。

三人目になると、もう事情が違う。右に二人、左は空。自分の勘がどうであれ、それを使う理由が薄くなっているんだよ。(空いてる方が良いという人も当然いる)四人目、五人目は、もっとそう。十人目が入る頃には、右は満席で、左は暖簾だけが揺れている。

十人が右を選んだ。数字にすれば、圧倒的な一致。でも、自分の目と鼻で右を選んだのは、最初の一人か二人くらい。残りは、前の人の背中を読んで入っただけ。

Bikhchandani、Hirshleifer、Welch(1992)は、こういう連なりを「情報カスケード」と呼んだ。先に動いた人たちの行動を見て、自分の手持ちの情報を脇に置き、同じ行動を取ったほうが、その人にとっては理にかなってしまう状況のこと。

一人ひとりは、合理的に動いてる。……だから厄介なんだけど。

外から見れば十人の一致。中身を数え直すと、独立した判断は二つほど。並んでいる人数と、確かめた人数は、別の数え方をしないといけないんだよね。

もちろん、他人の判断を見せ合うこと自体が悪いわけではない。Lorenzら(2011)は、”他者の推定”を知ることで意見のばらつきが縮まり、集団の精度が改善しないまま収束する場合を実験で示した。

ここで問題なのは、情報を共有することそのものではない。共有の仕方によって、もともと持っていた判断のばらつきまで失われることがある、ということなんだよね。

人気が人気を生むこともある

書店の平積み。帯に「売れてます」。ランキングの一位。

あの「売れてる」には、二つの意味が入っている。良いから売れた、というのと、売れているから売れる、というの。外から眺めているだけでは、どちらなのか分からない。

Salganik、Dodds、Watts(2006)の実験は、その二つを分けて眺められるようにした。

まだ誰も知らないバンドの曲を、一万四千人あまりに聴いてもらい、気に入ったらダウンロードしてもらう。ただし、参加者の一部には、他の人がどの曲をどれだけ落としているかが見える。残りには見えない。見える側は、さらにいくつかの別々の「世界」に分けられていて、それぞれの世界では、その中の人たちの選択だけが見えている。

結果は、こうだった。

他人の選択が見える世界ほど、人気の曲と不人気の曲の差が大きく開いた。しかも、どの曲が上に立つかは、世界ごとに違った。曲の顔ぶれは同じなのに、別の世界では別の曲が一位になる。

質がまったく関係しなかったわけでもないよ。飛び抜けて良い曲が底に沈むことは少なかったし、その逆もほとんどなかった。ただ、その間のどこに落ち着くかは、かなり偶然に開いていた。

……そう考えると、今日一位の曲が一位なのは、良いからかもしれないし、誰かが最初に選んだからかもしれない。人気には、結果の顔と、原因の顔が、両方ある。

行列を頼りにすること自体は、悪くない。ただ、その行列の最初の数人が何を見て並んだのかは、後ろからは見えない。

並んでいる人は数えられる。並ばなかった人は、数えられない。

沈黙は賛成とは限らない

会議の終わり近く。

「では、この方向で進めます。何かご意見は」

誰も手を挙げない。一秒、二秒。空調の音だけが少し大きくなる。

議事録には、こう書かれる。

異論なし。

沈黙の中身は、いくつもある。

  • 賛成している人。
  • 反対だけど、ここで言うのは面倒な人。
  • どちらでもいい人。
  • まだ考えている途中の人。
  • 話を聞いていなかった人。
  • 言っても変わらないと知っている人。

……見た目は、全部同じ。声のない賛成と、声のない反対は、区別がつかない。

「異論なし」と書けるのは、異論が出なかったから。異論がなかったことまでは、書いていない。

賛成が三人、沈黙が七人。その七人を「全員賛成」の側に数えてしまうと、そこに立ち上がるのは、実際の集団とは少し違う「みんな」になる。誰かが嘘をついているわけでもないのに。

沈黙の理由を、決めつけるつもりはないよ。

「異論なし」と書かれた紙の下に、何人分の”言わなかったこと”が挟まっているのかは、紙には書かれない。

「みんながそう思っている」は思い込みかもしれない

一次会が終わって、店の外。冬の夜の、少し湿った空気。

「二次会、行きますよね?」

誰かが言う。みんなが「行きますよ」と笑う。本当は、帰りの電車の時間を気にしている人が何人もいる。でも、周りが乗り気に見える。自分だけ帰るとは、言いにくい。

一人ひとりが、他の人の笑顔を、本心として読んでいる。その読みが全員分そろったところに、乗り気な「みんな」が出来上がる。誰一人、そこまで乗り気じゃなかったのに。

これは、多元的無知と呼ばれている。集団の一人ひとりが、他の人たちは自分とは違う考えや態度を持っていると思い込んでいる状態のこと。

Prentice と Miller(1993)は、プリンストン大学の学生を対象に、キャンパスの飲酒文化について、自分自身の感じ方と「平均的な学生」の感じ方を調べた。すると、学生たちは、自分よりも「平均的な学生」のほうが、飲酒文化を受け入れていると見積もる傾向があった。

つまり、自分はそこまで居心地がいいと思っていない。でも、周りの学生はもっと平気なのだろう。そう考える人が多かった。

自分以外の人たちの気持ちを、一人ひとり確かめたわけじゃない。けれど、周りが平気そうに見える。その見え方を積み重ねていくうちに、「みんなは受け入れている」という像ができていたんだよね。

続きがあるんだよ。Schroeder と Prentice(1998)は、入学したばかりの学生に、多元的無知について考える話し合いをしてもらった。すると、4〜6か月後、その話し合いを受けた学生たちは、比較対象の学生たちより少ない飲酒量を報告した。

「みんな」の像が実際の集団とずれているかもしれない。

そう知ることが、少なくともこの研究では、その後の行動にも関わっていた。

「みんな」は、最初からそこにあった一枚岩の意見じゃなくて、互いの表情を読み合って、いつのまにか組み上がった像であることがある。誰も強く支持していない考えが、みんなの考えとして立ち上がる。

……もちろん、本当に全員が乗り気な二次会も、あるんだけどね。

行くか行かないかの前に、あの笑顔が本心かどうかは、確かめないと分からない。

「みんな」は情報にも圧力にもなる

同じ「みんな」でも、それを「参考になる」と受け取るときと、「合わせなければ」と感じるときでは、意味が変わる。周囲と同じ方向へ動くことは、情報を受け取った結果でもあり、ときには圧力に押された結果でもある。

似ているようで、この二つは別のものだ。

「参考にする」と「従う」は違う

会議で自分の案を出したら、部長が渋い顔をする。周りの何人かも、黙ってうなずく。結局、案を引っ込めた。

引っ込め方は、二通りある。

ひとつは、この人たちは自分の知らない事情を知っているのかもしれない、という引っ込め方。手がかりとして受け取った。もうひとつは、ここで押し通すと浮く、という引っ込め方。居場所を守るために合わせた。

Deutsch と Gerard(1955)は、人が周りに合わせるときに働く影響を、情報的影響と規範的影響という二つの側面から考えた。前者では、他人の判断を自分が知らないことについての手がかりとして受け取る。後者では、周囲から受け入れられたい、拒まれたくないという社会的な側面が働く。

外から見れば、どちらも「案を引っ込めた」。

でも、中で起きていることは同じじゃない。

相手の根拠を聞いて納得したのか、周囲に合わせるために引いたのか。その違いは、行動だけを見ていても分からないことがある。

参考にするのは、自然なこと。ちゃんと役に立つ。

困るのは、参考にしているつもりで、実は従っているとき。その二つは、自分の中でも、案外見分けがつかないから。

案を引っ込めた帰り道に、少しだけ聞いてみるといいかもしれない。あれは、納得したのかな。それとも、降りたのかな、って。

周囲と同じ答えを選んでしまうことがある

一本の線が描かれたカードと、長さの違う三本の線が描かれたカード。三本のうち、どれが最初の線と同じ長さか。

見れば分かる。迷う余地はほとんどない。

Solomon Asch が一九五〇年代に行った実験では、部屋に何人かが座っていて、順番に答えていく。本人の順番は後ろのほう。ところが、先に答える人たちが、示し合わせたように、明らかに違う線を答える。

実はその人たちは、実験する側が用意した協力者で、本人だけが、何も知らない。

すると、本人の答えの三分の一前後が、多数派の間違いに合わせたものになった。全体の四分の三ほどは、少なくとも一度は合わせた。一方で、四分の一ほどは、一度も合わせなかった。数字は資料によって幅があるから、目安として置いておくよ。

面白いのは、協力者の中に、一人だけ違う答えを言う人がいると、合わせる人がぐっと減ったこと。正しい答えを言う人じゃなくても、効いた。多数派の一致が崩れた、ということが、効いていたのかもしれない。

こうした同調の出方は、集団の条件や状況によって変わることも分かっている。ここで大事なのは、人がいつでも周囲に流されるということではない。自分では答えが分かっているような場面でも、集団の一致が判断に入り込むことがある、ということなんだよね。

状況や時代で、影響の強さは変わるらしい。

線は、見えている。それでも、口に出す段になると、何かが挟まる。

論理で「おかしい」と分かっていても、圧力のほうは、それとは別の道を通って届く。ハンコが三つの理由を聞き返せる人でも、あの部屋の空気の中では、聞けないことがある。

多数派の圧力と正しさは別の問題

John Stuart Mill が『自由論』(1859)で気にしていたのは、法律や罰則の外にある力のほうだった。

社会は、法律に頼らなくても、自分の命令を実行できる。しかもその力は、逃げ道が少なくて、生活の細部にまで入り込んでくる。優勢な意見や感情が、それに合わない人の個性を、型にはめてしまう。ミルは、そういう「社会的な専制」への守りが要ると書いた。

面白いのは、ミルが、社会の意見や慣習が「間違っているかどうか」だけを問題にしているわけではないところ。たとえ多数派のほうに理がある場合でも、その意見や慣習が個人の生き方にまで入り込み、選択を狭めていくなら、それ自体が問題になりうると考えた。

つまり、圧力の強さは、中身の正しさとは別の軸にある。

多数派が正しいことを言っていても、圧力としては働く。多数派が間違っていても、圧力として働く。押されている感じの強さは、押してくる中身が正しいかどうかを、何も教えてくれない。

押されている感覚は、たぶん本物だよ。だからこそ、その感覚と、押してくる中身は、別々に確かめないといけない。

自分で考える=みんなと違うことをするではない

自分で考えることは、みんなと違う答えを出すことではない。理由を確かめ、納得できるところまで自分で考えたなら、結果として同じ場所にたどり着いてもいい。反対に、違うというだけで正しさが生まれるわけでもない。

みんなと同じでも、自分で考えた結果ならいい

新人は、あの日から少し経って、ハンコが三つ要る理由を調べてみた。

古い書類を辿ったら、何年か前に、二つで出して問題になったことがあった。そのときに、三つ目が加わっていた。理由は、ちゃんとあった。

新人は、今日も三つ押している。見た目は、最初の日から何も変わっていない。先輩と同じ手つきで、同じ場所に。

でも、手の中身は違う。ミルは、慣習だからという理由で何かをする人は、選択をしていない、と書いた。

考えたうえで慣習を選んだ人は、選んでいる。

結果が同じでも、選んだ人と選んでいない人は、別なんだよ。

揃うこと自体に意味のあるものは、揃えて構わない。理由を調べて、その理由に納得したなら、みんなと同じ答えでも、それは自分の答えになる。

同じ場所に立っているかどうかは、自分で歩いてきたかどうかとは、関係がない。

みんなと反対でも、正しいとは限らない

みんなが右なら、左へ行く。

一見、自分で決めているように見える。でも、何を基準にしているのかを辿ると、まだ「みんな」が出てくるんだよ。みんなが右だから、左。「基準」は、あいかわらず”多数派の側”にある。

行列のある店を避ける人がいる。待ち時間が嫌だから避けるのなら、それは自分の理由。ただ、みんなが並ぶ店は自分の趣味じゃない気がするから、という避け方だと、店の中身を一度も見ていない。

多数派の背中を見て、逆に走っているだけ。

少数派であることも、正しさの証拠にはならないよ。笑われたけれど正しかった、という話は、よく語り継がれる。でも、笑われて、そのまま間違っていた話は、誰も語らないから。

同じ方向に歩いても、反対に歩いても、見ているのは多数派の背中のまま。

「違和感」は答えではなく、問いの入口になる

「みんなそうしてるから」と言われて、うなずいた。その帰り道に、喉の奥に残っている、小さなざらつき。

あのざらつきが、正しいとは限らないよ。単に、慣れていないだけかもしれない。好みの問題かもしれない。違和感を、そのまま自分の正しさの証拠にしてしまうのは、多数派を根拠にするのと、同じくらい雑なんだ。

それでも、あのざらつきは、捨てなくていい。何に引っかかっているのかを、辿る入口にはなるから。

辿ってみると、いろいろなものが出てくる。理由を聞いたのに、返ってきたのは、事実の報告だった。

「みんな」の顔ぶれが、自分とは違う人たちだった。人数は多いけれど、中身の判断は少なそうだった。声の出ていない人たちが、見えないところにいそうだった。あるいは、ただ、押されている感じがしただけだった。

誰が、何人くらい、どんな条件で、なぜ。そして、それは自分にも当てはまるのか。

問いの形にすると、大げさに聞こえる。でも、ざらつきのままなら、ただの引っかかり。引っかかりのまま、少し触ってみる。

その程度で、十分だと思うよ。

「みんな」は答えではなく、考えるための材料

「みんな」という言葉だけでは、それが何を意味しているのかまでは分からない。多くの人がそうしているという事実かもしれないし、判断するときの手がかりかもしれない。あるいは、周囲に合わせようとする気持ちを生む圧力かもしれない。

同じ「みんな」でも、その中身はずいぶん違う。

だから、「みんな」を見るときは、人数だけで判断しないほうがいい。なぜその人たちはそうしているのか。自分と条件は近いのか。それぞれが自分の情報を持って判断したのか。それとも、誰かの判断を見て次の人が続いただけなのか。

そんなふうに少し中身を覗いてみると、「みんな」がただの人数ではなくなってくる。

そして、自分で考えることは、みんなと違う答えを出すことでもない。

理由を確かめて、納得したうえで同じ答えにたどり着いたなら、それは自分の判断でいい。反対に、多数派の逆を選んだからといって、それだけで自分で考えたことにはならない。

みんなと同じか違うかより、そこへどうやってたどり着いたかのほうが大切なのだろう。

新人が「どうしてハンコが三つ要るんですか」と聞いたとき、「みんなそうしてるから」という答えは、嘘だったとは限らない。ただ、それだけでは三つである理由までは分からない。

そこに理由があるのか、昔から続いているだけなのか、あるいは誰かが困った日の名残なのか。

「みんなそうしている」は、答えの代わりにはならない。けれど、捨ててしまうほど無意味なものでもない。

 

その「みんな」は、何を示しているのかな。

 

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世の中は大きく流れている。流れそのものを変えるのは、難しい。
でも、流れの中で何を見るか、どう考えるかは選べる。

問いを立て、深く掘り下げ、豊かさにつながるものを探していく。

豊かに、幸せに生きたい。
そのために、何を考えればいいのだろう。

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