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身体は自分か、容れ物か。どこまで「自分」と呼べるのか

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「私の身体」と言うとき、その”私”はどこにいるのか。

脳にいるのか?心にいるのか?

手も、足も、脳も、全部「私の持ち物」だとしたら、それを所有している”本体”はどこなのか?

没頭しているとき、身体のことを考えていない。

走っていても、弾いていても、身体は消えて行為だけが残る。身体が最もよく機能しているとき、身体の存在を感じない。

手や足にに、「私の」とつけた途端、その距離は少しだけ遠くなる。

身体は自分か、容れ物か。一致とズレの瞬間

鏡に映る「自分ではない顔」

洗面所の鏡を、なにげなく見る。

そのとき、ほんの一瞬だけ、映っている顔が「自分ではない誰か」に見えることがある。

疲れた目元。思ったより深くなった法令線。記憶の中の自分よりも、少し老けている顔。頭の中ではまだ「あの頃の自分」のまま動いているのに、そこに映っているのは知らない人みたいで、ちょっと面食らう。

気のせい、というわけでもない。

自分の中にある”自己イメージ”と、現実の外見のあいだに”ズレ”が生まれたとき、鏡の中の顔は外側から見た「対象」に変わることがある。頭の中の自分と、映っている顔が、微妙に一致しない。その差が開いた瞬間、身体が”自分”から「外側の何か」に見えてくる。

身体が”自分”だったはずなのに、気づくと観察される側に回っている。

……面白いな、って。同じ一瞬のことなのに。

動かない身体という重たい他者

熱が出て、ベッドから起き上がれない朝のこと。

頭では「起きなきゃ」と思っている。でも身体が動かない。

腕が重くて、足も床に届く気がしない。意志は確かにあるのに、”それを受け取らない身体”だけがそこにある。

このとき、身体はもう”自分”ではなく、なにか別のものになっている。

言うことを聞かない、重たい他者。閉じ込められている、という感覚に近い。「自分が身体の中にいる」という感覚が、こんなにあっさり出てくるとは思わなかった、というくらいに自然に。

意志とコントロールが噛み合っているとき、身体は自分に近い場所にある。でも主体感が薄れた瞬間、身体との距離が生まれやすくなる。急に質量を持つような感じ、とでも言えばいいのかな。

意識がなくても動き続ける身体

眠りに落ちる直前、妙に心臓の音が気になることがある。

ドクン、ドクンと、ひとりでに打ち続けている。自分が動かしているわけではない。「止めよう」と思っても止まらないし、そもそも普段は意識にも上らない。眠っている間も、麻酔の下でも、淡々と続いている。

それを”自分の身体”と呼ぶのは、なんとなく分かる。

でも、自分がいなくても動くものを、”自分”と言い切れるだろうか。

意識(私)と、生命活動(この身体)は、どこかで別々に動いている。

そのことに気づいたとき、身体がすこし遠くなる感じがある。他人事みたいに聞こえるかもしれないけど、あの感覚は確かにある。ただそこに打ち続けている心臓の音を聞きながら、「これって本当に自分なのかな」と、ふっと思う瞬間。

「私の身体」という言葉の矛盾

ふだん、なにげなく使っている言葉がある。

「私の手が痛い」「私の胃が重い」「私の身体がだるい」。

口にしてから、少し止まる。“私の”、という言葉。

あまりにも自然に使っているから、ほとんど疑ったことがない。でも、よく考えると、これは少し変に感じる。

「私」と「身体」を分ける言葉の構造

「私の手」と言った瞬間、言葉の上では何かが起きている。

「私(所有者)」と「手(所有物)」に、きれいに分かれている。

主語と目的語。

持つ側と、持たれる側。

文法の構造として、身体はすでに”自分ではないもの”として扱われている。

試しに「手が痛い」と「私の手が痛い」を並べてみると、後者のほうが少し距離がある。”私の”をつけた途端、手は自分から切り離されて、所有される対象になる。

これは言葉の癖、というより、言語そのものの性質に近い。

英語では「my body」、フランス語では「mon corps」。こうした例を見ると、身体について語ろうとするとき、所有の構造をとっていることに気づく。語ろうとすればするほど、身体は自分の外に置かれていく。

身体を”自分のもの”として言葉にしようとすること自体が、すでに身体を容れ物に変えている。

……なんというか、言葉って不思議だな、とは思う。

身体を所有する「私」はどこにいるのか

では、「私の身体」と言うとき、その”私”はどこにいるのか。

「私の手」「私の足」「私の内臓」「私の脳」。

順番にはがしていくと、所有物ばかりが積み上がっていく。

さらに進めると、「私の感情」「私の記憶」「私の思考」とすら言う。

全部が”私の持ち物”だとしたら、それを持っている”本体”はどこにあるのか。探せば探すほど、出てくるのは”所有物”ばかりで、”持ち主”だけが見当たらない。頭の奥の奥まで辿っていくと、最後にはただ「見ている視点」だけが残る感じがする。

実体のない、場所もない、ただの観察する何か。

所有というモデルは、身体に当てはめると最終的に行き詰まる。

持ち主がいるはずなのに、その持ち主の居場所がない。少なくとも哲学的な解釈として言えば、身体は所有できる対象というより、”私”という現象が立ち現れるための場そのものに近いのかもしれない。

所有物ではなく、土台。

……うん、たぶんそっちの方が近い。

どこまでが自分か。伸び縮みする境界

「自分」の範囲は、皮膚の内側で終わっている。

なんとなく、そう思っている。でも、本当にそうなのかな。

没頭すると身体は消える

走っているとき、身体のことを考えていない。

アスファルトを蹴るたびに、振動が脚を伝ってくる。

息が上がって、肺の奥が少し熱い。でも、それを「感じながら走っている」わけではない。ただ走っている。足がどう動いているか、腕がどこにあるか、呼吸がどのリズムか。意識して確認しているわけではなく、身体ごと前に進んでいる。

楽器を弾いているときも、仕事に深く入り込んでいるときも、似たことが起きやすい。指の動きをいちいち追っているわけではなく、音楽そのものになっている感じ。身体が透明になって、”行為だけが残っている状態”。

多くの場合、身体が最もよく機能しているとき、身体の存在を感じない。

完全に使えているとき、道具は消える。身体も同じで、世界と滑らかに交わっているとき、その輪郭が薄れていく。「身体は自分か容れ物か」という問いが立ち上がる余地すら、ない。

痛みが身体を「異物」に変える

歯が痛いとき、歯のことしか考えられない。

ふだん、歯の存在など意識しない。口の中にあることは知っているけれど、それが「そこにある」と感じることはほとんどない。ところが痛み出した途端、歯は意識のど真ん中に居座る。じんじん「我ここにあり!」と自己主張して、他のことを考えさせない。

透明だったものが、急にノイズになる。

これは歯に限らない。腰が痛いとき、肩が凝っているとき、胃がもたれているとき。不調が出た部分だけが切り取られて、「どうにかしなければならない対象」として浮き上がってくる。自分の一部なのに、なぜか外から見ている感覚になる。

うまく機能しているとき、身体は自分に溶け込んでいる。問題が起きた瞬間、その部分が外側に反転する。

同じ身体の、同じ部位なのに。

状態ひとつで、立場が変わる。

道具や外部へ広がる「自分」

眼鏡をかけはじめた頃、鼻の上に乗っている異物を意識していた。

でも慣れてくると、フレームの存在が消える。レンズの向こうを見ているのではなく、ただ見ている。眼鏡は「物」ではなくなって、「見ている自分」の一部になっている。

杖も、うまく馴染んでくると似たことが起きやすい。杖をついて歩くとき、感覚が手のひらだけでなく、杖の先が触れている地面の方まで届く感じがある。石畳の硬さ、砂利の感触。皮膚が直接触れていないのに、そこまで意識が伸びていく。

義手などの補助具も、条件が合えば同じ。外部の素材でできているのに、使い慣れてくると「自分の身体」に近い感覚になってくる、という。

境界は、皮膚で終わっていない。

うまく扱えるものは自分に近づき、うまく扱えないものは外側のままになる。

「自分」とは物理的な位置ではなく、機能として届いている場所のことなのかもしれない。皮膚は境界線の目安にはなるけれど、それが全てではない。

……そう考えると、自分の輪郭って、思っていたよりずっと曖昧だなって。

身体は「自分」と「外側」を行き来する

自分か、容れ物か。

どちらかに決めようとすると、さっきまで確かだと思っていた感覚が揺れ始める。それはたぶん、身体がどちらか一方に留まっていないからだと思う。

コントロールできるものは「自分」になる

指先を動かす。思った通りに動く。

そのとき、指は疑いなく「自分」だ。意志と結果が噛み合っていて、距離がない。

ところが、しゃっくりが出る。止めようとしても止まらない。横隔膜が勝手に痙攣して、自分の意図とは無関係に身体が動く。同じ自分の身体なのに、このとき横隔膜は「自分ではないもの」のように感じられる。

まぶたがピクピクと震えているとき、足が攣って意志と無関係に筋肉が固まっているとき。制御できない部分は、するりと外側に出ていく。

少なくとも行為の主体感という観点で言えば、「自分」という感覚は意図した通りに結果が返ってくるという感覚と、強く結びついているのかもしれない。コントロールが通じるとき、身体は自分に溶け込む。通じなくなった瞬間、外側に弾き出されやすくなる。

眼鏡や杖が「自分」になっていくのも、たぶん同じ仕組みだ。うまく扱えるようになると、道具は自分の延長になる。

身体も道具も、制御感」という一本の軸でつながっている。

身体は固定できない流動的な境界

朝、重い体を引きずって起き上がるとき、身体は言うことを聞かない容れ物だ。

昼間、仕事や作業に没頭しているとき、身体の存在を忘れている。自分そのものとして動いている。

夜、湯船で疲れた脚をほぐしているとき、身体は労わるべき対象になっている。少し距離のある、いたわりの眼差しで見ている。

一日の中だけで、これだけ変わる。

身体は「自分」という極と、「外側・対象」という極のあいだを、波のように行き来している。どちらかに固定されることなく、状況と体調と意識の向きによって、その位置が変わっていく。

これを「どっちつかず」と見ることもできる。でも、そうじゃないとも思う。

環境や状態に応じて身体との距離が変わるのは、揺れているというより、適応している。朝の重さと、没頭中の透明さと、夜の労わりは、それぞれ別の関係ではなく、同じ身体との、状況に応じた異なる接し方だ。

固定できないこと自体が、この関係の自然な形に近い。

……うん。決めなくていいのかもしれない、そもそも。

身体を「容れ物」と見る視点とその限界

身体と自分を、少し切り離して見る。

その視点は、意外なほど心を楽にすることがある。ただ、どこまでも切り離していくと、今度は別のものを失っていく。

身体と距離を取る

鏡を見て落ち込む、という経験がある。

肌の荒れ、体型の変化、疲れの出た顔。それを見て「自分はなんてみっともないんだろう」と思うとき、身体の状態がそのまま自分の価値に直結している。身体の不出来が、魂ごと否定されるような感覚になる。

身体と「私」が”強く一体化”しているときに、こういうことが起きやすい。

身体の変化や不具合を「私自身の欠陥」として処理してしまう。そこに距離がない分、ダメージも直接的になる。

ここで少し視点をずらす。身体を「今たまたま割り当てられている器」として見る、という一つの考え方がある。

そう見ると、肌が荒れているのは器のコンディションの問題になる。体型が変わったのは器の経年変化になる。それは「私」の価値とは、別の話になる。長く付き合ってきた相棒の具合を確かめるような感じで、器の状態と向き合える。

ただこれはあくまで一つの見方で、万能な答えじゃないよ。認識として切り離すことで楽になる部分がある、という話。

変化や老いを「器」として受け止める

年齢を重ねると、できないことが増えていく。

徹夜が効かなくなる。回復に時間がかかる。若い頃は当たり前にできていたことが、少しずつ難しくなる。そのたびに「衰えた」「もう若くない」と感じるのは、身体の変化を自分の劣化として受け取っているからだ。

身体を”自分そのもの”として同一化していると、老化は「自分が消えていくこと」に近い感覚になる。

でも、身体を器として見るとき。長く使ってきた器が、経年で変化していく。それは劣化というより、時間をかけて使い込まれた痕跡だ。古い家の木材が、年月を経てしっくりと落ち着いてくるような、そういう変化に近い。

抵抗するより、変化に合わせて付き合い方を変えていく。

急いで否定しなくていい。器が変わっていくことと、自分の価値は、別の軸にある。

切り離しすぎることで失われる感覚

ただ、切り離しにも限界がある。

仕事が忙しいとき、眠気や胃の重さを無視して「身体はただの道具だ」と言い聞かせて動き続けることがある。痛みや疲れを感じないようにして、とにかく前に進む。容れ物として扱うことで、限界を超えられる気がする。

でも、そのまま進んでいくと、限界が来ることがある。じわじわと、あるいはある時点で急に。

身体の声を遠ざけているうちに、痛みだけでなく、心地よさや温かさまで一緒に薄れていく。疲れを感じなくなるのと同時に、美味しさ、眠れた朝の感覚、日差しの気持ちよさといった、細かな生の手触りも消えていく。

身体は、この世界を感じるための大きな接点。

痛みも、疲れも、心地よさも、全部同じ回路から来ている。その回路を閉じると、不快だけでなく快も届かなくなる。身体と距離を取ることは有効だけれど、完全に手放すと、世界との接点そのものが細くなっていく。

切り離しは、強すぎる同一化を解くための調整に近い。万能の答えではなく、使いどころのある視点。

……遠ざけすぎると、生きている実感ごと薄れていく。

それは少し、寂しい話だな、とも思う。

身体は自分か、容れ物か。その揺らぎのままに

結局のところ、答えは出ない。

たぶん、出るものでもない。

鏡の前で他人になり、走っている最中に透明になり、痛みとともに異物になり、慣れた道具の先まで広がっていく。

一日のうちに、これだけのことが起きている。

瞬きが、勝手に起きている。呼吸が、続いている。それを「自分がやっている」と感じることも、「ただ起きている」と感じることも、どちらも間違っていない。同じ瞬間に、両方が本当のことだ。

身体は、どちらか一方に決めると嘘になる。

自分そのものとして完全に一致する瞬間がある。

同時に、思い通りにならない重たい他者として立ち現れる瞬間がある。

言葉にしようとすれば切り離され、所有しようとすれば持ち主の居場所がなくなる。器として距離を置けば楽になる部分があって、切り離しすぎると世界の手触りが薄れていく。

どれも、同じ身体の話。

「自分か、容れ物か」という問いは、答えを求めるための問いではなかったのかもしれない。身体との距離が、状況によって変わっていくことに気づくための、入り口に近い。

重くなる日もあれば、透明になる日もある。

……うん、そんな気がする。

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