人はどんな気持ちで、最期を迎えるのだろうか。
最期の瞬間、枕元に残っているのは、きっと有名なブランドのロゴが入った紙袋じゃない。誰かと笑い合ったあの日のかすかな光の匂いや、必死に駆け抜けた季節の記憶……。そういったものなのだろう。
最後に残るのは、モノより思い出。
形のあるものと、形はないのに残り続けるもの。いったい何が、自分の中に残っているのか。
お金をかけたことと、心に残ること。
楽しかったことと、あとまで思い出すこと。
高価な腕時計の針が刻む音と、波打ち際で聴いた波の音。心に残っているのは、きっとお金では買えない音のほうだ。
モノを買うとき、人は「所有する自分」を夢見る。けれど体験を選ぶとき、人は「生きている実感」を味わおうとしている。
体験とは、自分の内側に小さな傷や光を刻むことだ。
形として残らないからこそ、奪われることもない。
失われない財産を、人は「思い出」と呼ぶのだと思う。
なぜモノより体験のほうが幸せなのか?

お金を使うとき、私たちは何を手に入れられるかを考える。けれど、手に入れたものが、そのまま満足の大きさや長さになるとは限らない。手元に残るものと、心に残るもの。
その違いは、買った瞬間よりも、時間がたってから見えてくるのかもしれない。
モノを買った満足は、なぜ薄れていくのか?
新しいイヤホンが届いた日を、ちょっと思い浮かべてみて。
箱を開けるところから、もう楽しい。ケースの手触りを確かめて、耳に入れて、いつもの曲が少し違って聞こえるのを一人で面白がる。そういう日、あるよね。
それが何週間かたつと、何も考えずに耳へ押し込んでいる。いい音かどうかも、あまり気にしない。いつの間にか、特別な買い物から、いつもの道具になっている。
心理学では、こうした慣れを「快楽適応」と呼ぶ。新しい刺激や状況に慣れるにつれて、最初の喜びが薄れていくことがある。慣れる速さは人や状況によって違うけれど。
イヤホンが悪くなったわけじゃない。
音は変わらず鳴るし、通話もできるし、毎日ちゃんと役に立っている。薄れていったのは”新鮮味”であって、便利さまでなくなったわけではない。この二つを混ぜてしまうと、買わなくてもよかったのかな、と失敗だったような気がしてくるんだよ。
Nicolao、Irwin、Goodman(2009)の研究では、体験型の購入はモノの購入より、快楽への適応がゆっくり進む傾向が示されている。
つまり、体験はモノよりも気持ちが長く動き続ける場合がある。ただし、これは体験なら必ず幸せになれるという意味じゃないよ。期待どおりにいかなかった場合には、残念な気持ちも長く残ることがあるから。
買った日の満足がいちばん強く、そのあとは日常に溶けていく。それ自体は、悪いことじゃない。ただ、満足がどれくらい続くかは、モノが手元に残っているかどうかだけでは決まらないようだね。
体験の喜びは、なぜあとまで続くのか?
旅行から帰って、荷ほどきを終えた夜。もう、あの場所にはいない。
コンサートだって同じ。最後の音が消えて、会場の明かりがついて、人が出口へ流れていく。その場で過ごした時間は、もう終わっている。
けれど、体験の楽しみは、その場にいる時間だけとは限らない。出発前から地図を眺めたり、食べたいものを調べたりする時間も、楽しみの一部になることがある。
Kumar、Killingsworth、Gilovich(2014)は、体験を待つ時間と、モノが手に入るのを待つ時間を比較した。その結果、体験を待つほうが、期待や楽しさを感じやすい傾向が示された。
まだ出かけていないのに、行きたい場所を調べているだけで気分が弾む。あの時間も、体験の楽しみのひとつだったのかもしれない。
じゃあ、体験型の買い物は、実際に幸福につながるのだろうか。
WeingartenとGoodman(2021)は、141研究、360の効果量を統合したメタ分析で、体験型購入のほうがモノの購入よりも幸福や心理的な充足につながりやすいという、全体的な傾向を確認している。
ただし、その差は大きいとはいえず、推定された効果の約3分の1は出版バイアスによる可能性も指摘された。また、優位性は測定する内容によって異なり、人とのつながりでは比較的大きく、幸福感そのものでは小さかった。
体験なら何でも幸せになれる、という話ではないんだ。それでも、体験には、手に入れたモノを所有することとは違った形で、気持ちを動かす力がある。
ただ、楽しみが続くといっても、それだけではまだ少し曖昧だよね。体験が終わったあと、思い出は具体的に何を残してくれるんだろう。
体験は思い出として何を残すのか?

終わった体験は、もう一度その場に戻らなければ味わえないものではない。ふと思い出したり、誰かと話したりするなかで、過ぎた時間が今の暮らしに入り込んでくる。体験が過去になっても、そこで得たものまで過去に閉じ込められるわけではない。
思い出すたびに、体験の楽しさはよみがえる
旅行から戻って、数日たった頃。通勤電車の窓に夕日が傾いて差し込んで、ふいに、あの町の坂道を思い出す。
誰かに話すわけでも、写真を開くわけでもない。ただ、頭のなかで少しだけ、そこに戻っている。
好きな曲が流れて、コンサートの日の空気がよみがえることもあるよね。ステージの光とか、隣で揺れていた誰かの肩とか。
こういう時間は、お金を払った日には、数に入れていないんだ。チケット代は、当日の2時間ぶんのつもりで払っている。それなのに、帰り道にも、数日後にも、”その体験をもう一度味わえる余地”が、勝手についてくることがある。
体験が終わったことと、体験を楽しめる時間が終わったことは、同じじゃない。
もちろん、思い出すたびに同じ楽しさが戻るとは限らないよ。何も思い返さないまま薄れていく体験もあるし、思い出したくない記憶になるものもある。戻ってくるかどうかは、その体験と、思い出す側の今の気分次第。
それでも、使い道を決めていなかった楽しみが、あとから静かに増えていることはある。
思い出は、ひとりで開くだけのものでもないしね。
共有した思い出が、人とのつながりを深める
旅行から帰ったあと、一緒に行った人と、また同じ話をしている。
道を間違えて、やたら遠回りした夕方のこと。予定になかった店に入ったら、思いのほか当たりだったこと。観光名所の話より、そういう小さな出来事のほうが、何度も出てくる。
「あの角のところ」と言うだけで、相手にも伝わる。長い説明をしなくても、同じ場面を思い出せる。二人しか持っていない過去が、関係のなかにひとつ増えている。
体験が会話の話題になりやすいことは、研究でも示されている。KumarとGilovich(2015)は、人がモノより体験について話すことを選びやすく、そうして体験を語ること自体からも楽しみを得ていると報告した。
BastosとBrucks(2017)の研究では、体験が会話の話題になりやすい背景に、相手との関係を築きたいという動機が関わっていた。相手との関係を築く動機を取り除くと、体験をモノより話題に選びやすいという傾向も見られなくなった。
つまり、一緒に何かを経験すれば、必ず関係が深まるわけじゃない。同じ場所にいたことだけでなく、そのときの出来事が、”あとから二人の間で何度も語られること”にも意味があるのだと思う。
モノにも、贈り物のように人をつなぐ役目はある。
体験の場合は、同じ時間を一緒に過ごしたという事実そのものが、二人の共通の過去になる。
体験を通じて、自分の好みや価値観が見えてくる
興味のあったものづくりのワークショップに、行ってみたとする。
完成品を持ち帰るのが楽しみで申し込んだのに、やってみたら、きれいに仕上げることより、手を動かして少しずつ形になっていく時間のほうが好きだった。そんな気づきもある。
反対に、評判のいい体験に参加したのに、どうも自分には合わない、と分かる。
どちらも、やってみる前には分からなかったこと。頭のなかで「好きそう」と思っていたものが、実際に手を動かしたり、その場で過ごしたりすると、少し違って感じられる。その違いが、自分について知る手がかりになる。
合わなかった体験から分かることもある。
賑やかな場所は楽しいけれど、長くいると疲れる。誰かと一緒のほうが楽しいと思っていたけれど、ひとりで過ごす時間も好きだった。そうした発見が、”次に何を選ぶか”にも関わってくる。
CarterとGilovich(2012)の研究では、人は体験として買ったものを、モノとして買ったものより、自分らしさを表すものとして捉えやすいことが示された。2023年の追試でも、体験型購入のほうが、自分の「本当の自分」を反映していると捉えられやすいという結果が再現されている。
この研究が、体験すれば必ず自分の好みや価値観が分かることを示しているわけではない。ただ、実際に何かを経験したときの感覚は、自分が何を好きで、何を大切にしたいのかを考える手がかりになる。
人生が変わるとか、劇的に成長するとか、そんな大きな話じゃなくていい。
静かなほうが落ち着く。
誰かと一緒のほうが楽しい。
そのくらいの発見でも、自分について分かることは少しずつ増えていく。
モノだって、自分らしさを表すことはある。体験には、実際にやってみて初めて分かる自分が、そこに加わることがあるんだよ。
体験にお金を使えば、本当に幸せになれるのか?

体験に価値があると分かっても、お金を使うこと自体が幸せを生むわけではない。どれだけ特別な時間でも、自分に合わなければ期待外れに終わることがあるし、何気ない日常が思いがけず心に残ることもある。
大切なのは、「体験」か「モノ」かという分類だけでは決められない。
高価な体験より、心に残る体験を
何か月も前から楽しみにしていた、少し奮発した旅行。当日は雨で、移動で疲れて、予約した食事も、期待したほどは響かなかった。帰りの電車で、「こんなものかな」とつぶやく。
かと思えば、近所の店になんとなく入って、どうでもいい話を長々として、帰り道でもまだ笑っている。
あとから思い出すのがどちらかは、かかった費用だけでは分からない。
先に触れたNicolao、Irwin、Goodman(2009)の研究では、体験型購入は、うまくいった場合にはモノの購入より幸福につながりやすい一方、期待外れだった場合には、その優位性がなくなり、場合によってはモノより不満が強く残ることも示されているよ。
体験は、気持ちを動かすぶん、満足だけでなく、期待との”落差”も長く残ることがある。
何が満足を左右するのかは、一つに絞れない。自分の興味に合っているか。誰と過ごすか。その日の体力や気持ちに余裕があったか。値段も関係するけれど、それだけで決まるわけじゃない。
Lee、Hall、Wood(2018)の研究では、社会階層が高い人では、モノより体験にお金を使うほうが幸福につながりやすかった。一方、社会階層が低い人では、体験型購入の優位性は見られず、モノの購入のほうが幸福につながるか、両者が同程度という結果だった。
これは、経済的に余裕がない人は体験を楽しめない、という意味じゃない。生活に必要なモノが不足しているときには、それを手に入れることが暮らしを支える。何にお金を使うと幸福につながるかは、置かれている状況によっても変わるんだ。
特別な体験だけが価値を持つわけでもない。
BhattacharjeeとMogilner(2014)の研究では、若い人は非日常的な体験を幸福と結びつけやすい一方、年齢を重ねて残された時間を有限に感じる人では、日常の体験も同じくらい幸福と結びつく傾向が示された。
いつもの食事や何気ない休日も、過ごし方によっては、特別な出来事と同じように大切な時間になる。
だから、体験を選ぶときに見ておきたいのは、高いか安いかだけではなく、その時間で自分が何を味わいたいのか。人に話せるか、誰かに見せられるかという基準だけで選んでいないか。それも、ときどき確かめたくなる。
安ければいい、という話でもないよ。高い体験が、その人にとって大きな意味を持つことだってある。
値段が価値を決めるわけじゃないし、値段が価値と無関係なわけでもない。自分にとって何に価値を感じるのかは、値段だけでは測れないんだよね。
モノにも、暮らしと思い出を支える価値がある
毎日使うマグカップ。
気に入った形のカップで飲むコーヒーは、同じ豆でも、少し落ち着いて口に運べる。使いやすい包丁が一本あるだけで、料理が億劫じゃなくなる日もある。
こういうモノは、手に入れた日に驚きをくれるわけじゃない。毎日の暮らしのなかで、”何度も小さな心地よさ”をもたらしてくれる。
WeidmanとDunn(2016)は、モノや体験を実際に楽しんでいるときの気持ちを調べ、モノは日々のなかで幸福をより”頻繁”にもたらす一方、体験は一つひとつの機会で、”より強い幸福”をもたらす傾向を報告した。
毎朝使うカップと、年に一度の旅行。
喜びが現れる頻度や強さは違っていても、どちらにも価値がある。
モノと体験は、完全な二分ってわけでもない。カメラをきっかけに出かけるようになったり、楽器を手にしたことで、日々の暮らしに演奏する時間が加わったりする。
GuevarraとHowell(2015)は、楽器やスポーツ用品のように、体験するために使うモノを「体験型製品」として調べた。その結果、こうした製品は、所有そのものを目的としたモノより幸福につながりやすく、体験そのものと同程度の幸福をもたらす場合もあると報告している。
もちろん、買っただけで体験が始まるわけではない。カメラを手に入れても使わなければ、出かけるきっかけにはならない。けれど、道具があることで初めて、やってみようと思えることもある。
旅先で買った器を使うたびに、その町で過ごした時間がふと戻ってくる人もいる。誰かからもらった物が、その人の声を思い出させることもある。逆に、モノに特別な思い入れを持たない人もいる。いつもそうなるわけではないけれど、モノが経験や記憶と結びつくこともあるんだ。
カップは毎朝、手に取るものだし、旅が、そのカップを選んだ理由になっていることもある。モノを買うことと体験にお金を使うことは、いつもきれいに分けられるわけではないのかもしれない。
何を買うかより、何が自分に残るか

お金を払うとき、私たちは目の前にあるものや、これから過ごす時間に価値を見積もっている。けれど、それが暮らしのなかでどんな意味を持つのかは、手に入れたときにはまだ分からない。
家のなかには、何年も使い続けているものがある。買った日のことはもう覚えていなくても、毎朝のコーヒーを飲むときや、料理をするとき、当たり前のように手が伸びる。
特別な喜びはなくなっていても、なくなったら困る。そんなふうに、いつの間にか暮らしの一部になっているものがある。
過ぎ去った時間も、同じように残るとは限らない。楽しかったはずの休日をほとんど思い出せないこともあれば、誰かと並んで歩いた道の、木陰の涼しさだけがふとよみがえることもある。何をしたかは曖昧なのに、そのときの感覚だけは、思いがけないほど長く残っている。
何が残るかは、手に入れたときの期待だけでは決まらない。長く使うつもりだったものが棚の奥に眠ることもあれば、何気なく過ごした時間が、何年もたってから心に浮かぶこともある。
棚のなかで静かに使われ続けているものもあれば、もうそこにはないのに、ふと思い出すだけであの日の気持ちが戻ってくることもある。手元に残るものと、過ぎた時間のなかに残るもの。
そのどちらも、買った日にはまだ知らなかったかたちをしている。
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