「自己投資」
今使ったものが、あとで返ってくる。そんな約束を、あらかじめ含んだ言葉。
資格や勉強なら分かりやすい。今の自分に何かを足して、あとで使えるようにする。だから、お金を使う理由も説明しやすい。
一方で、旅行に行く。映画を観る。知らない街を歩く。そういうものになると、急に「娯楽」の側へ置かれる。
でも、写真を見れば、その日のことが少しずつ戻ってくる。誰といたか。何を話したか。その頃、自分が何を気にしていたか。
写っているのは風景だけなのに、その周りにあったものまで戻ってくる。
お金を払ったときには、こんなものが残るとは思っていなかった。
経験に使ったお金は、何を買ったのか分かりにくい。
だからこそ、ときどき考える。
そのお金を使ったあと、自分の中に何が残っていてほしいんだろう。
経験は「自己投資」になる

自己投資という言葉を聞くと、知識や資格、技術など、何かを身につけることを思い浮かべる。使った時間やお金が、あとで自分の力として返ってくるイメージ。
でも、自分に残るものは、必ずしも「できること」だけじゃない。知らなかったことを知ることや、自分が何に惹かれるのか分かることも、経験のあとに残るものではある。
なぜ経験は自己投資に見えにくいのか
投資、という言葉には癖がある。今使ったものが、将来のどこかで返ってくる。そういう矢印を、無意識に期待させる言葉なんだよね。
資格は、この矢印をかなり素直に説明できる。
取った、使える、仕事に生きる。
勉強時間も同じ。積み上げた分だけ、後で何かの形に”変換”できそうな予感がある。
でも、旅行に使った三万円は、何に変換されるんだろう。知らない街を歩いた数時間は、何に化けるんだろう。最初からそういう回収額を、提示してくれない。
だから経験は、投資という枠から外れがちになる。……でもそれ、経験そのものに価値がないから、じゃないんだよね。ただ、測りにくいだけ。
資格取得数や学習時間は、他人に説明しやすい。数えられるから。経験のほうは、楽しかった、誰かとの距離が縮まった、自分がこういうことを好きだと分かった、みたいな形でしか残らないことが多い。数字にならない。
価値がないことと、測りにくいこと。
この二つ、案外混同されやすい。
経験には、あとから残るものがある
投資という言葉の意味を、少しだけずらしてみる。「今使ったお金が、将来お金になって返ってくる」ではなく、「使った後、自分の中や人生に何が残ったか」というふうに。
そう置き直すと、経験の見え方が変わってくる。
- 記憶。
- 誰かとの距離感。
- 自分についての、小さな発見。
- まだ言葉になっていない新しい関心。
……こういうものが、経験の後にはよく残る。
すぐには使い道が見えないものも多い。でも、使い道が見えないことと、残っていないことは、また別の話。
本当に、それだけの価値があるんだろうか。単なる「良い体験だった」という感覚を、自己投資と呼んでいいものなんだろうか。
経験はモノより幸福につながりやすいのか

経験に価値があるとしても、それだけで「経験にお金を使えば幸せになれる」とまでは言えない。モノを買うことにも、生活を楽にしたり、毎日の楽しみになったりする価値がある。
それでも、経験への支出には、モノとは少し違った幸福とのつながり方があるようだ。どうやら経験は、その瞬間だけのものとして考えないほうがよさそうなんだよね。
経験を買うことは、幸福につながりやすい
「経験にお金を使ったほうが幸せになれる気がする」
この感覚には、研究からもある程度の裏づけがある。
2003年のVan BovenとGilovichの研究では、人生の経験を得ることを主な目的とした支出は、モノを所有することを主な目的とした支出より、幸福だったと感じられやすい傾向が示されている。
ここでいう「経験」は、旅行やイベントといった商品カテゴリーの話じゃないよ。たとえばカメラでも、それ自体を所有することが目的ならモノの購入だし、それを使って写真を撮りに出かけることが主な目的なら、経験につながる支出として考えられる。
だから、この研究を「モノより経験を買えば幸せになれる」と受け取るのは少し違う。
そもそも、生活に必要なものが足りない状態なら、実用的なモノにお金を使うことの意味は大きい。経験への支出がいつでも優れているわけでもない。
あくまで、必要なものをある程度満たしたうえで、余裕のあるお金をどう使うか。
そんな場面で、経験という選択肢が持つ価値を考える話なんだと思う。
経験の価値は、体験する前から始まる
旅行を予約したあとの数週間って、なんだか少し楽しいよね。まだ行ってもいないのに。
これ、気のせいじゃない。Kumar と Killingsworth、Gilovich が2014年に行った四つの研究では、経験を待っている時間のほうが、モノを待っている時間より、楽しく、高揚感を感じやすいことが示されている。
新しい家電の到着を待つのと、旅行の日を待つのとでは、待ち方そのものの質が違う。前者はどちらかというと早く欲しい、という焦れったさに近く、後者は”その時間ごと味わっている感じ”に近い。
支払った瞬間だけを切り取って経験の価値を測ると、この「待っている間」の分を、まるごと見落とすことになる。
しかも、経験の価値はそこで終わらない。行く前には楽しみに待つ時間があり、当日は実際に体験する時間がある。その後には、思い返したり、人と話したりする時間もある。
経験は、その日だけの数時間を買っているわけでもない。前にも後にも、少しずつ時間がつながっている。
経験は、人との時間や会話にも残る
何を買ったかより、どこへ行って何があったか、のほうが会話は広がりやすい。
実際、経験への支出は、モノへの支出よりも、後から人に話す材料になりやすいことを示した研究もある。
考えてみれば、経験には「一緒にいた人」や「そのときの会話」までくっついてくる。旅行の話をしているつもりが、いつの間にか一緒に行った人の話になっていることもある。
一人で完結する話じゃないんだよね。経験は、思い出すたび、話すたびに、人との間にも少しずつ残っていく。
……ただ、ここまでの話だけを聞くと、経験なら何でも良さそうに聞こえてくる。本当にそうなんだろうか。
経験なら何でもいいわけではない

ここまでの話だけなら、「モノを買うより経験を選べばいい」と考えたくなる。
でも、経験なら何でも同じように残るわけではない。誰かにとって忘れられない体験が、自分にとってはそうでもないこともある。経験の価値を考えるなら、「経験かどうか」の先まで見てみる必要がある。
経験の価値は、自分とのつながりで変わる
Zhang、Howell、Caprariello、Guevarraによる2014年の研究では、3つの研究、計675人を対象に、経験的購入と物質的購入の幸福との関係を調べている。結果は、誰にとっても「経験のほうが幸せ」という単純なものではなかった。
ものを買うことを好む傾向の強い人たちは、経験を買ってもモノを買っても、幸福度に大きな差が出なかった。一方、経験を好む傾向の強い人たちは、経験を買ったときのほうが幸福度が高かった。
この違いには、その買い物が「自分らしさの表現」として感じられるかどうかが関係していた。
野球が好きな人が野球を観に行く。それは、自分らしい選択として残る。
でも、美術にそこまで関心のない人が「経験のほうがいいらしいから」という理由だけで美術館に足を運んでも、同じようには残らない。むしろ、ただの時間の消費で終わることもある。
つまり、経験だから良いんじゃない。
自分と、その経験の間に何がつながっているか。
そこが分かれ目なんだと思う。
モノと経験は、単純に分けられない
カメラ、自転車、楽器、料理道具。こういうモノは、持っていること自体より、”それで何ができるか”に価値がある。
カメラを買った人は、写真を撮りに知らない場所へ出かける。自転車を買った人は、行ったことのない道を走ってみる。楽器を買った人は、練習するうちに新しい曲を弾けるようになる。
モノが、経験の入口になっている。
だから「モノか経験か」って、実はきれいに分けられるものじゃないんだよね。
同じカメラでも、ただ所有したいのか、それを使って何かを始めたいのかで、その買い物の意味は変わる。
研究でも、モノと経験の中間にある「経験につながるモノ」が扱われている。電子機器や楽器、スポーツ用品などは、所有するためのモノでありながら、新しい経験を生み出す道具にもなる。
だから、何を買ったかだけを見るより、「そのお金で何をしようとしているのか」を見たほうが、その買い物の意味は分かりやすい。
Carter と Gilovich の研究では、経験への支出はモノへの支出より自己概念との結びつきが強い傾向が示されている。ただ、これは経験だけが自分と関係するという話ではない。長く使う道具や、思い入れのある品が、自分の一部のように感じられることだって普通にある。愛着のあるぬいぐるみとかね。
それと、経験は比較されにくい、とよく言われるけれど、これも絶対じゃない。旅行やイベントの様子がSNSで見えるようになれば、羨望も比較も、ちゃんと起きる。
「モノか経験か」より、そのお金を使った先に何が起こるのか。
そこから考えたほうが、案外分かりやすい。
高価さや珍しさだけでは、経験の価値は決まらない
一駅手前で降りて、知らない道を歩いてみる。図書館で、いつもは行かない棚の前に立ってみる。行きつけの店で、いつもと違うメニューを頼んでみる。
どれもお金はほとんどかからない。規模も小さい。でも、いつもの選択を少しだけ変えている、という点では、さっきの野球観戦の話とちゃんとつながっている。
高級な旅行だから深い経験になるとは限らないし、珍しい体験だから意味があるとも限らない。何度も行く場所や、いつもの食事が、その年、その時期だからこそ強く残ることだって、普通にある。
値段や珍しさは、経験の価値を決める軸じゃないんだ。決めるのは、それがどれだけ自分と噛み合っているか。
経験すると、自分に合うものが見えてくる

自分とのつながりが大事だとして、では、自分に何が合うのかはどうやって分かるんだろう。
考えているだけでは分からないことも多い。やってみて初めて、思っていたより好きだったり、逆にそうでもなかったりする。経験には、楽しむだけでなく、自分について知るための材料になる面もある。
やってみなければ、自分に合うか分からない
「やりたいことが分からない」というのは、情報が足りていないんじゃなくて、比較する材料がまだ手元にないだけ、ということもある。
Kim、Seto、Christy、Hicks が2016年に行った研究では、経験への支出のほうが、モノへの支出よりも、「本当の自分を知るための情報源」として価値があると感じられやすいことが示されている。
頭の中だけで、自分に合うものを探そうとしても、判断材料が乏しいまま堂々巡りになりやすい。
経験してみる。反応を知る。その反応をもとに、次の選択が少し変わる。
この循環、意外と単純だけど、案外ちゃんと効く。
「合わなかった」経験も、次の選択に生かせる
やってみたけど、思ったほど楽しくなかった。そういうことも、当然ある。
さっきの美術館の話に、もう一度戻ってみる。関心のない人が行ってみて、案外何も残らなかったとする。それは失敗、というより、情報。
自分はこういう空間にはあまり惹かれない。静かに座って観るより、動きながら考えるほうが好き。そういう輪郭が、少しはっきりする。
「失敗は必ず成長につながる」なんて言い切るつもりはないよ。ただ、合わなかったという結果も、次に選ぶときの判断材料の質を、少しだけ上げてくれる。それだけの話。
経験は、自分の人生を語る材料になる
何を持っているかより、何をしてきたか。
そっちのほうが、自分を語るときの材料になりやすい。
Carter と Gilovich の2012年の研究は、経験への支出のほうが、モノへの支出よりも、自己概念との結びつきが強い傾向を示していた。「経験している自分」のほうが、「持っている自分」より、その人自身に近いところにある、ということ。
あの街で数年暮らした。初めて一人で遠くへ行った。あの人と、あの場所に立った。学生の頃、誰も知らない場所に通っていた。
こういう「したこと」が、後から自分の過去を語るときの材料になっていく。使い切って終わるものじゃなくて、少しずつ自分の一部になっていくものなんだよね。
何を残したいかで経験を選ぶ

経験を重ねると、自分が何に惹かれるのかが少しずつ分かってくる。
そうすると、経験の選び方も変わってくる。ただ面白そうなものを探すのではなく、今の自分には何が必要なのか、その時間のあとに何が残ってほしいのか、と考えられるようになる。
今の自分は、何を求めているのか
経験を探す前に、まず自分の今の状態を見る。この順番、案外飛ばされがち。
知りたいのか。休みたいのか。誰かと過ごしたいのか。刺激が欲しいのか。自分を試してみたいのか。
きれいな分類にする必要はない。ただ、今の自分が何に傾いているか、それを一度見てから経験を探すだけで、選ぶものはたぶん変わってくる。
その経験のあと、何が残るのか
何を買ったか、じゃなくて、何が残ったか。
経験から残るものは、一種類じゃない。楽しさ。記憶。人とのつながり。自分についての理解。新しく芽生えた関心。次の選択のための材料。
だから、「良い経験を探す」より前に、「何を残したいか」から逆算するという考え方もできる。記憶を残したいのか。誰かとの時間を残したいのか。自分について少し知りたいのか。できることを増やしたいのか。
経験の数を集めることは、実はモノを集めることと、あまり変わらない発想だったりする。
大事なのは、量じゃなくて、その経験によって何が分かったか、何が残ったか。
今だからできる経験か、後回しにしてもいい経験か
年齢、体力、季節、その場所にいる期間、人との関係のタイミング。こういうものは、後から同じ形では取り戻せない。
経験については、「買ってしまった」という後悔より、「やっておけばよかった」という後悔が生まれやすいことを示した研究もある。RosenzweigとGilovichが2012年に行った5つの研究では、モノと経験で後悔の形が異なり、経験では「しなかったこと」への後悔が生じやすかった。
「やる後悔」より、「やらない後悔」の方が残るというわけだね。
もちろん、だから経験は今すぐやるべき、という話ではない。
ただ、経験には「あとで同じものを買い直せばいい」とは言えないものがある。旅行に行っておけばよかった。元気なうちに会いに行けばよかった。あの季節に、あの場所を歩いておけばよかった。
だから経験を選ぶときには、「これをやって後悔しないか」だけじゃなくて、「これをやらないことで、何を逃すか」という視点も、ちゃんと持っておいたほうがいい。
そう考えると、経験を選ぶときも「面白そうか」だけではなく、今の自分に何が残ってほしいのかから考えてみたくなる。
まだ知らないことを知る。誰かと時間を過ごす。いつもと違う場所へ行ってみる。そういう経験の中には、あとから思い返したくなるものもある。
経験への投資は、「何を残したいか」で考える

自己投資という言葉を、もう一度考えてみる。
資格や知識だけでなく、経験を通して自分に何かが残ることも、広い意味では投資と考えられる。ただ、経験の数を増やすことが目的じゃない。大切なのは、その時間とお金を使ったあと、自分の中や人生に何が残るのかということ。
ただ、ここまで見てくると、「経験にお金を使う」ということ自体が大事なわけでもないんだと思う。
何を買ったか。
いくら使ったか。
どれだけ珍しいことをしたか。
そういう分かりやすい数字から少し離れて、そのお金を使ったあと、自分の中や人生に何が残るのかを見る。
経験を増やそう、という話には、あまりしたくない。経験の数を追いかけることは、いつの間にかモノを集める発想と、似たものになってしまう。大事なのは数じゃなくて、自分の中に何が残っているかを少しずつ見ていくこと。
このお金を使ったあと、自分の人生には何が残るだろう。
その残るものは、知識かもしれないし、人との時間かもしれない。自分について少し分かったことや、新しく興味を持ったものかもしれない。
……まあ、それも、実際に使ってみないと分からないんだけどね。
これから、どんな経験をしてみよう?
経験は、ただ数を増やせばいいものでもない。
今の自分が気になっていることや、まだ知らない世界に触れてみることから、意外なものが残ることもある。
旅行、食、ものづくり、文化、ちょっとした非日常。
「やってみたい」と思えるものから、次の経験を探してみてもいい。


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