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人はなぜ嘘をつくのか。実は真実だけでは生きられない

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「似合ってるね。」

その一言に、本当はどれくらいの気持ちが混ざっているんだろう。

100%で思っているわけじゃないけど、完全な嘘でもない。

励ましたい。安心してほしい。空気を壊したくない。少しだけ遠慮もある。言葉はひとつなのに、いくつもの気持ちを一緒に運んでいる。

それを、嘘と呼んでいいんだろうか。

でも、嘘のない世界でも、生きにくい。

まず「嘘」とは何か

事実と、口から出る言葉。その間には、思っているよりも隙間がある。

この記事でいう「嘘」とは何か

嘘、と聞いて最初に浮かぶのは、騙す顔をした誰かかもしれない。お金を巻き上げたり、罪をごまかしたり、誰かを陥れるための、あの手の言葉。

触れたいのは、そっちじゃないんだよね。

もっと手前にある、ずっと小さくて、ずっと身近な言葉のこと。

「すごくいいと思う」も、「大丈夫」も、”事実そのもの”じゃないなら、たぶん同じ棚に並ぶ。相手を気遣った一言も、社会の中で少し形を整えた言い方も、自分でも気づかないまま歪んでしまった記憶も。

 

事実をそのまま渡さなかった、という括りで、ひとまず同じ言葉で呼んでおくよ。

 

ただ、黙っていることや、話す範囲を選ぶことまでは、同じ棚には乗せない。誰にでも見せるわけじゃない部分を、持っておくのは、また別の話。「言わない」と「歪める」の間には、たぶん線がある。

その線がどこにあるのかは、追い追い。

まずは、事実と違う言葉。その全部を視界に入れておく。それだけ、はっきりさせておくね。

誰もが日常で小さな嘘をついている

友達からの誘いを、「その日、ちょっと用事があって」って断ったとき。ひとりの部屋で、大して面白くもない動画を眺めながら、なんとなくほっとしている自分がいたりする。

用事なんて、なかった。

ただ、行きたくなかっただけ。それだけのことを、そのまま言葉にするのが、なぜかできない。

似合ってないな、と一瞬思ったのに、「似合ってるね」って口の方が先に動いていたり。正直そこまでとは思わなかったのに、「いいと思います」って、するっと言えてしまったり。

たぶん、誰にでもある。

角を立てたくない。がっかりさせたくない。そのために、事実をほんの少し脇に置く。そのスピードがあまりに自然すぎて、自分でも「嘘をついた」なんて自覚すら持たないまま、一日は過ぎていく。

こういう”小さな嘘”は、思っているよりずっと多い。そう指摘する研究もある。特別なことじゃなくて、息をするような話みたいだね。

……となると、少し不思議になる。

なぜ私たちは、こんなにも簡単に、しかも頻繁に、事実をそのまま渡さないんだろう。似合ってないと思ったなら、そのまま口にしたって、別に減るものはないはずなのに。

その手前で、いつも何かが動いている。

人はなぜ嘘をつくのか。その瞬間に起きていること

言葉が変わる瞬間って、実はすごく短い。コンマ何秒かの話。でも、そこで起きていることは、たぶん見た目より複雑だよ。

守りたいものができた瞬間

「どう思う?」って聞かれて、一瞬、本当に思っていることが頭をよぎる瞬間がある。

正直に言えば、そんなに良くない。でも、口を開く直前、相手の顔が目に入る。期待している目。少し不安そうな目。……その顔を見た途端、さっき浮かんでいた言葉が、すっと形を変える。

代わりに出てくるのは、”少し丸くなった”言葉。

真実を投げ捨てたわけじゃない。むしろ、その一瞬前まで、ちゃんと本音はあった。ただ、その本音をそのまま渡したら、何かが壊れる気がした。相手の顔とか、その場の空気とか、これから先も続くはずだった関係とか。

守りたいものが、先に生まれたんだよね。

嘘は、真実を軽んじたから出てくるものだと思われがちだけど、たぶん逆。真実のままじゃ守れないものが、目の前に現れたから、言葉のほうが形を変える。

「大丈夫。」も、そう。

これ以上心配させたくない。困らせたくない。まだ壊したくない何かがある。……その気持ちが先に立って、言葉が後からついてくる感じ。

だから、あの瞬間に起きているのは、選択というより反射に近い。守りたいものが生まれた瞬間、言葉はもう、少し違う形になっている。

言葉は事実より関係を守ろうとする

「うん、そうだね。」

会話の中で、これだけ何回言ってるんだろうね。中身をよく考えると、そんなに賛成でもないのに、相手の温度に合わせて頷いている瞬間。

情報のやり取りとしては、正確じゃない。でも、”その場の空気”としては、たぶん正しい。

事実を、そのまま剥き出しで渡してみる想像をしてみる。思っている以上に鋭い。切れ味が良すぎて、渡した瞬間、手のほうまで切れてしまいそうな感じがする。

だから、少し丸める。和らげる。少し、言い方を選ぶ。

正確な情報だけを交換し合う関係を想像してみると、案外、冷たい部屋みたいな感じがする。

事実を運ぶ声と、関係を保つ声。

同じ言葉の中に、両方が混ざって鳴っている。

事実を伝えることが最善とは限らない

正しいことを、正しいまま渡せばいい。…そう思っていた。

でも、現実はもう少し込み入ってる。

例えば医療の現場では、患者さんの状態は、伝え方や伝える順番まで含めて慎重に考えられる場面がある。一度にすべてを伝えることが、必ずしも最善とは限らない場面もある、ということなんだと思う。

子どもに、まだ受け止めきれない現実を、”そのままの重さ”で渡す人は、たぶんいない。少し形を変えて、抱えられる大きさにして、渡す。

葬儀の場で交わされる、決まったような言葉。あれも、事実の報告じゃない。その場にいる人たちを、なんとか支えるための言葉だよね。

「本当のことを話す」と、「相手のためになる」。

この二つは、いつも重なっているわけじゃない。

真実は、時々、人を切る側にも立つ。

じゃあ、もし誰もがずっと、事実だけを渡し続けたら。……その先の世界って、どうなるんだろうね。

もし人が嘘をつかなかったらどうなるのか

もし誰も、事実を曲げなかったら。

100%の本音が壊してしまうもの

朝、最悪の気分で登校した日を思い出してみる。

寝てない。気力もない。そんな状態で、誰かに「調子どう?」って聞かれたとする。

もしそこで、頭の中にあることを全部そのまま渡したら。「最悪。何もしたくない。あと、前からずっと思ってたんですけど、その意見、正直つまらない。」

……想像しただけで重い。

正直ではある。嘘は、ひとつも入ってない。でも、たぶん一瞬で、その場の空気は壊れる。関係も、たぶん元には戻らない。

事実を渡すことと、それを受け取れる状態にあることは、別の話なんだと思う。

社会って、みんなが舞台の上で、”少しだけ役を演じる”ことで、なんとか回っている気がする。楽屋裏の感情はしまっておいて、求められる顔を差し出す。接客の笑顔とか、大人の対応とか呼ばれるあれ。

不誠実だと思うこともあるだろう。でも、たぶん違う。剥き出しの感情同士がぶつからないように、あいだに何か挟んでおく。厚手のカーテンを一枚、引いておくみたいに。

演じることは、偽ることじゃない。誰かと同じ場所に、安全に立つための、ちょっとした工夫。

……ただ、その工夫を毎日繰り返していると、たまに分からなくなる瞬間がある。今の自分のどこまでが素で、どこからが役だったのか。

境目が、少しずつ滲んでいく。

「言わないこと」と嘘の境界線

じゃあ、本音を隠すことと、嘘をつくことって、同じなんだろうか。

苦手な相手に「好きです」って言うのと、苦手だとは言わずに、ただ普通に接するの、たぶん手触りが全然違う。前者は、事実と違う情報をわざわざ渡している。後者は……ただ、その部分を渡さなかっただけ。

自分のことを全部話すのが誠実さだ、とは、たぶん思わない。誰にどこまで話すか、その線引き自体が、関係そのものの形をしている気がする。近い人には近い分だけ、遠い人には遠い分だけ。

沈黙も、話す範囲を選ぶことも、それ自体は歪めることじゃない。渡さなかった、というだけで。

「嘘をついちゃいけないなら、全部話さなきゃいけないの?」って、そんな息苦しさを感じることがあるなら、それは少し違う。話さない自由は、ちゃんとある。

……でも、この線引き、いつもくっきりしてるわけじゃないんだよね。話さないつもりが、いつのまにか、違う印象を持たせるための沈黙になっていたり。

そのグラデーションは、たぶんこのまま抱えておくしかない。

他人に対しては、そうやって、話したり、話さなかったり、少し演じたりしながら、関係の距離を調整している。

……じゃあ、自分自身に対しては、どうなんだろう。

私たちは、自分にだけは、100%の事実で向き合えているんだろうか。

人は自分自身にも嘘をつく

他人に対しては、さっき見た通り。じゃあ、自分自身とは、どう向き合っているんだろうね。

心は痛みから自分を守ろうとする

何かで失敗した日の、頭の中を覗いてみる。

一瞬だけ、「自分の確認不足だ」って、はっきり見える瞬間がある。

でも、その一瞬はすぐに埋もれる。

「いや、でもあの指示の出し方も分かりにくかった」

「そもそも時間が足りなかった」

気づけば、頭の中にはちゃんとした言い分が、いくつも並んでいる。

卑怯なことをしているつもりは、たぶんない。ただ、気づいたら、もうそうなっている。

自分の非を、そのままの重さで受け取ると、たぶん立っていられない。だから、心はその重さを、”少しずつ削る”。責任の一部を、状況とか、他人とか、タイミングとか、いろんなところに分けて置く。

言い訳って呼ばれると、なんだか自分がひどく卑劣な人間みたいに感じる。でも、たぶん違う。崩れそうな自分を、なんとかつなぎとめようとする動きに近い。

傷口を、いつもそのまま晒しておくのが正しいわけじゃない。手当てが先に要ることだってある。

……ただ、それでも、少し引っかかってる部分がある。

言い訳をしている自覚があるうちは、まだいい。「本当はこうなんだけど」って、心のどこかで分かっている。

でも、もし。

自分でも、それが本当のことだと、”完全に信じ込んでしまっていた”としたら。

本人も気づかない「無意識の嘘」

昔の喧嘩を、思い出してみる。

「あっちが先にひどいこと言った。」

「自分は最初からこう思っていた。」

……そう、はっきり覚えている。記憶の中では、そういう順番で、そういう温度で、起きたことになっている。

でも、もし当時のやり取りが、そのまま記録に残っていたら。もしかしたら、ちょっと違う景色が映っているかもしれない。

嘘をついているつもりは、一切ない。むしろ、本気でそう思っている。

どうやら記憶って、ビデオみたいに、起きたことをそのまま保存しているわけじゃないらしい。思い出すたびに、”新たに”組み直されていく。保存されているのは、出来事そのものじゃなくて、その出来事に自分がつけた意味の方、ということになる。

なんとなく選んだ行動に、あとから「もっともらしい理由」がくっついていることもある。最初からその理由で動いていた、って、本気で思い込む。

意図的な悪意は、どこにもない。それなのに、事実とは違う世界を、本人だけがはっきり信じている。

嘘というのは、知っていて曲げることだと思っていた。……でも、これは、知らないまま曲がっている。

”そのまま見続ける”ということが、そもそも、そんなに得意じゃないのかもしれない。

……そこまでして、事実を退けているのに。

他人との間では事実を曲げ、自分との間でさえ、気づかないうちに書き換えている。それだけのことをしてまで守っているのに。

なのに、なぜ「優しい嘘」をついたあとだけ、あんなに胸が痛むんだろう。

なぜ優しい嘘でも胸が痛むのか

守るための言葉だったはずなのに。あとに残るこの感触、何なんだろうね。

優しい嘘ほど胸が痛む

誰かが見せてくれたものを、「すごくいいと思う」って言った日のこと。

嘘じゃない、と思いたかった。ただ、正直に言えば、そこまでではなかった。でも、その人の顔がぱっと明るくなるのを見て、良かった、と思った。傷つけずに済んだ、って。

なのに、胸のどこかに、小さなトゲが刺さっているのに気づく。

騙してしまった、というほど大げさな感触じゃない。もっと細くて、もっと静かな痛み。相手の無邪気な笑顔を、あとで思い出すたびに、そのトゲがちょっとだけ疼く。

不思議だよね。相手のためにやったことのはずなのに、なぜか自分が、少し嫌な気持ちになる。

……この痛みの正体は、たぶんこうなんだと思う。

嘘をついた瞬間、自分と相手の間に、”薄い壁”ができる。自分だけが知っていて、相手だけが知らない。その壁の内側で、相手はまだ、事実じゃない方の景色を見ている。それを分かっていながら、笑って頷いている自分がいる。

相手を守っている形をしていながら、同時に、相手だけを違う景色に置き去りにしている。そういう行為でもあるんだよね。

本能的に、そこに痛みを感じるんだと思う。悪人だから鳴っているんじゃない。ただ、「本当は、ごまかさずに繋がっていたい」っていう気持ちが、静かに疼いてるだけ。

……ただ、ここでもう一つ見ておきたいことがある。

あの時、本当に「相手のため」だけだったんだろうか。

嫌われたくなかった。気まずい空気になるのが、怖かった。がっかりされた自分を、見たくなかった。……そういう気持ちが、「相手のため」って言葉の後ろに、こっそり隠れていたこと、なかったかな。

それに、もし本当のことを伝えていたら。相手は、その現実と、ちゃんと向き合う機会を持てていたのかもしれない。優しさのつもりで差し出した言葉が、相手から、成長するはずだった一歩を、静かに奪っていた可能性も、たぶんゼロじゃない。

……綺麗な話じゃなくなってきたね。

でも、たぶんこれが、正確な景色なんだと思う。

守りたい気持ちと正直でいたい気持ち

あの瞬間、言葉を飲み込んで、少し違う形に変えた、あの一瞬をもう一度覗いてみる。

そこにあったのは、一つの気持ちじゃなかった。

「傷つけたくない」という気持ちと、「本当のことを言いたい」という気持ち。

二つとも、嘘じゃない。両方とも、ちゃんと本物。

ただ、その二つが、同じ瞬間に、同じ場所で、鉢合わせてしまっただけ。

どちらかを選べば、どちらかがこぼれ落ちる。「正直」を選べば、「優しさ」がこぼれる。「優しさ」を選べば、「正直さ」がこぼれる。……その板挟みの中で、不器用な言葉が、なんとか形になって出てくる。

…矛盾している、でも、そういうもの。

矛盾を抱えられるのは、相手のことを、そこまで真剣に考えているからだよ。どうでもいい相手になら、こんなに悩まない。適当な言葉を、適当に投げて、それで終わり。

引き裂かれるような感覚があるということは、それだけ、ちゃんと相手を見ているということ。

胸が痛むのを、なくそうとしなくていい。その痛みは、消えるべきものじゃなくて、たぶん、抱えたまま歩いていくものなんだと思う。

……それでも、私たちは、また誰かと言葉を交わす。

冷たい事実だけを並べるより、もっと守りたい何かを抱えながら、生きているから。

人は事実ではなく「意味」を生きている

今日も、どこかで誰かが、”事実と少し違う言葉”を差し出している。

電車の中で、スマホの画面を見ながら、返信を考えている。

「大丈夫だよ」って打って、少し迷って、そのまま送る。

カフェでは、「いいと思う」って、誰かが誰かの話に頷いている。玄関では、「疲れてないよ」って、靴を脱ぎながら誰かが言っている。

事実じゃない。でも、嘘というには、あまりに静かで、あまりに優しい。

そういう言葉が、今日も無数に、誰かの朝を支えて、誰かをそっと保っている。

事実だけを積み重ねて、人は生きていない。そんな気がする。

 

本当のことと、守りたかったもの。その間で、人は少しだけ言葉を選ぶ。

「大丈夫だよ」の奥に、何が隠れていたのか。

 

誰かが言葉を選んでいる。口を開きかけて、閉じて、また開いて。

迷っているぶんだけ、まだ、手放していないものがある。

窓の外で、風が少し出てきた。夕方の光が、部屋の隅まで長く伸びている。

その光の中で、また誰かが、小さく言葉を選んでいる。

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