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100年後の人類は今より幸せなのか

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100年後の人たちは、今より幸せなんだろうか。

人類は、かなり多くの問題を解決した。寒さも、飢えも、退屈ですら、昔よりずっと簡単に埋められる。

進歩は「不快」を減らした。でも、楽になったあとに残るものが、必ずしも「幸福」と同じとは限らない。

技術は進む、医療も延びる、便利さはますます洗練されていく。

苦痛は減った。でも、幸せが増えたかどうかは、また別の話。

進歩と幸福が一緒に動くものだと、なんとなく信じていた。苦しみが減れば、幸せが増えると。不便がなくなれば、豊かになると。

その前提は正しいのか。

進歩は「苦痛」を減らす。でも、幸せは増えるのだろうか。

100年後の人類は今より幸せなのか

100年で、人類はずいぶん多くの「不快」を取り除いてきた。

冬の朝に起き抜けで薪に火を入れる必要がなくなった。歯が痛ければ麻酔で痛みを消せる。遠くにいる人とも数秒で話せる。お腹が空けば手元のデバイスで食べ物を呼べる。客観的に見て、生活に関わる苦痛はこの100年で激減した。

すごいことだよ、本当に。

でも、こんな光景も、見おぼえがないかな。

特に何か悪いことがあったわけじゃない。すべきことは片付いている。お腹もふくれた。部屋は快適な温度に保たれている。それなのに、なんとなくスマホを開いて、眺めて、閉じて、また開いて、気づいたら深夜になっていて、じわりとした焦りと一緒に眠れずにいる。

体の不快はゼロに近い。なのに、心のどこかがずっと落ち着かない。

……このずれが、ちょっと引っかかる。

不快は減ったのに幸福は増えない理由

人類が進歩で解決してきたのは、ほとんどが「マイナスを解消すること」だった。

痛みを取る。飢えを消す。寒さをなくす。移動の不便を埋める。感染症を抑える。これはどれも、確実に人間の苦痛を減らしてきた。否定しようのない前進だよ。

ただ、マイナスがゼロになっても、それは「幸せになった」とは違う。

ゼロはゼロで、プラスじゃない。

不快が消えた空白に、喜びや意味や手ざわりが自動的に入ってくるわけじゃない。問題の領域が「物質と身体」から「心理と意味」へ移っただけで、解決されたわけじゃない。そもそも範囲が違っていた、というのが正確かな。

空いた時間にスマホで他人の生活を眺めてため息をつく。夜になると将来への不安が輪郭をはっきりさせてくる。孤独を感じる人が減っている実感も、あまりない。

問題が消えたんじゃなくて、問題の場所が変わった。それだけのことだよ。

昔にあった幸福のかたち

昔の生活を、そのまま良いものだとは思わない。乳幼児死亡率は高く、感染症は怖かった。冬の寒さは今とはまったく次元が違う。医療も衛生も、今とは比べ物にならなかった。

ただ、一つだけ気になることがある。

当時の不便さには、今と違うものが一緒にくっついていた気がする。

その日の薪を割って、火を起こして、家族や近所の人間と一緒に暖を取る。食事を誰かと手分けして準備する。誰かが体を壊せば、自分たちで対処するしかなかった。不便だから、人と関わらざるを得なかった。

自分の行為が、直接、誰かの状態に繋がっていた。

苦痛を取り除いていく過程で、その苦痛にくっついていた「生きている感触」のようなものまで、一緒に削ぎ落としてしまった部分があるかもしれない。……断言はできないけれど。

美化したいわけじゃない。ただ、何かが一緒に消えた可能性は、ちょっと無視しにくい。

慣れが幸福を見えなくする

真夏に冷房のよく効いた部屋に入った瞬間、思わず「最高だ」と感じる。あの感動、本物だよ。

でも、3日後にはどうなっているかというと、もうそれが当たり前って感じで、おそらく次の刺激を求めている。……あの初日の感動はどこへ行ったんだろう、とたまに思う。

人の心は、改善した状態への適応が、驚くほど早い。

「あること」への感謝や感動は、時間とともに背景に溶けていく。もはや意識にも上がらない”前提”になる。残るのは「なかったとき」への記憶だけで、「あること」の価値は不可視になる。

スマホの通信速度が数秒遅れると、ちょっとストレス。1秒で繋がることへの感動は、もうどこにもない。

これは「贅沢病」とか「感謝が足りない」とかじゃなくて、慣れてしまうって話。幸福の総量が増えているんじゃなくて、「当たり前の基準」だけが上に引き上げられ続けている。

100年後はもっと便利になるだろうけど、そのぶんだけ幸福が増えるかというと。……どうかな、というのが正直なところ。

効率化が奪う体験の密度

効率よく生きることが、賢い選択だと思っていた。

無駄を省いて、失敗を避けて、最短で目的地に着く。タイパを意識して、コスパを計算して、限られた時間を最大限に使う。それ自体は別に間違ってないし、否定したいわけでもない。

ただ、気になることもある。

効率よく過ごした一日の終わりに、”何が記憶に残っているか”、という話。

手間がつくる記憶と愛着

地図アプリを開いて、案内に従って歩いて、迷わず目的地に着いた。快適。でも、帰り道に「あの店、どの辺にあったっけ」と思い出そうとすると、何も浮かばないことがある。道中の景色を、あんまり見ていなかった。

逆もある。

地図を持たずに歩いて、曲がる路地を間違えて、雨も降り出して、通りかかった人に片言で道を教えてもらいながらたどり着いた小さな店。あそこの軒先の色だとか、濡れた石畳の匂いだとか、今でも鮮明に残っている。

なぜ後者の方が記憶に残るのかというと、たぶん体と思考が動いたから。迷って、困って、誰かに頼って、ようやく着いた。その”プロセス”が、体験を「意味」として心に刻んだ。

効率化は、この摩擦を取り除く作業。迷わない、失敗しない、無駄に動かない。快適ではあるけれど、”体験の密度”が薄くなる。スムーズに終わったことは忘れやすくて、苦労したことはずっと残る。

手間を省いたとき、手間と一緒にその体験の手ざわりまで省いていた、ということかな。

選択を代替するアルゴリズム

週末に映画を観ようとして、プラットフォームを開く。選択肢が何百本もある。どれにしようか迷って、結局「評価が高い」「今週のおすすめ」に流れる。観終わったあと、まあ良かったな、と思う。でも翌週になると、何を観たかあまり覚えていない。

”自分で選んだ感じ”が、ほとんどしなかったからかな。

選択肢が増えすぎると、選ぶこと自体がしんどくなる。失敗したくないから、アルゴリズムに委ねる。レビューに頼る。「みんなが良いと言っている」を選ぶ。それで外れは減るかもしれないけれど、同時に「自分がそれを選んだ」という感覚も薄れていく。

主体感、とでも言うのかな。自分の意志でそれを掴んだ、という実感。

それがなくなっていくと、受け身で生きているような、ぼんやりした感覚が積み重なっていく。テクノロジーが悪いというより、楽になりたくて意思決定を手放しているのは自分自身でもある。

……それが等価交換だったとして、何を渡してしまっているのか、という話だよ。

比較が生む疲れ

夕食を食べ終えて、ソファに沈んでいた。別に嫌なことがあったわけじゃない。ただ、スマホを開いた。

友人が旅行に行っていた。見知らぬ誰かが素敵な部屋に住んでいた。丁寧に整えられた朝の食卓の写真があった。一つ一つは、何でもない。でも、気づいたときには、自分の部屋が急にみすぼらしく見えていた。さっきまで十分満足していたはずなのに。

幸福の基準が”自分の内側にあるうち”は、ある程度コントロールできる。

でも、常に他者の「最も見栄えの良い瞬間」が流れ込んでくる環境では、その基準が外側から書き換えられ続ける。自分が何を持っているかではなく、他人が何を持っているかで、今の自分を測るようになる。

比較対象が、身近な人間関係だけではなく世界中の最良の断片にまで拡張され、しかもそれが常時・大量に流れ込んでくるようになったのは、情報環境の構造的な変化だから。

疲れているのは、比較の量と密度が増えすぎているだけかもしれないよ。

社会設計に埋め込まれた効率優先

多くのアプリが、人に「もっと早く」「もっとたくさん」消費させる方向に動く。

通知が来る。スクロールが止まらない。次のコンテンツが自動で流れる。「続きを見る」を押した記憶がないのに、気づいたら1時間が過ぎている。

消費の効率化、エンゲージメントの最大化、データの蓄積。それぞれの目的が積み重なった結果として、今のデジタル環境は成立している。誰かが悪意を持って設計したというより、そういうインセンティブが積み重なると、そういう形になる、ということかな。

もちろん、利用制限やウェルビーイングを意識した設計に取り組むサービスも出てきているけれど、主流の方向性としてはまだそちらが強い。

システムが動こうとしている方向と、個人の心が満たされる方向が、かなりの部分でズレている。そのレールの上で生きていたら、どこかぎこちなくなるのは当然だよ。

乗っているレールの向きが違っただけだから。

完成された社会の空白

少し、想像してみてほしいんだけど。

100年後の世界。労働はほとんど自動化されている。衣食住は保障されている。医療は高度化されて、生き死にに関わる不安は今よりずっと小さくなっている。やりたいことをやって、好きなものを消費して、一日が終わる。

痛みも、飢えも、ほとんどない。

……それで、幸せかというと。どうなんだろう?

数ヶ月なら天国かもしれないけれど、何十年もそれが続いたら、と思った瞬間に、なんともいえない空洞のような感じ。

完璧なはずなのに、何かが足りない。

その「何か」の正体が、ここでの話だよ。

役割を失うという逆説

朝、目が覚める。健康に最適化された食事が自動で用意されている。今日すべきことは、特にない。誰かに頼まれてもいないし、誰かを困らせているわけでもない。好きなコンテンツを消費して、好きな時間に眠る。怪我もしない。誰とも衝突しない。

これが100年後の、ある一日の描写だとして。

最初の一週間は、きっと最高だよ。休暇の延長みたいなもので、解放感がある。でも、一ヶ月、半年、数年と続いたら。……どうだろう。

「今日、自分がここにいた意味」が、どこにも見当たらない。

誰かの役に立ったわけじゃない。誰かに影響を与えたわけでもない。システムが完璧に回っているから、自分がいてもいなくても、何も変わらない。それに気づいたときの、まるで幽霊のような感覚。

人間は「自由になりたい」と思いながら、同時に「何の役割もない空間」に置かれると、自分を保てなくなるらしい。苦痛を取り除ききった社会は、人間を完全に保護しながら、同時に完全に不要にしてしまう。

安全だけど、いなくていい。快適だけど、何も生んでいない。

その静けさは、安らぎとは少し違う種類。

必要とされることと幸福

AIに頼めば一瞬で終わる作業を、あえて誰かに相談して一緒に悩む。

手際が悪い家族のために、わざわざ時間をかけてご飯を作る。「私がやらないと、この人が困る」という状況にいるときの、あの不思議な落ち着き。……あれは何なんだろう、と少し気になる。

煩わしいはずなのに、なんだか安定する。

たぶん、自分の行為が他者に届いているという実感が、そこにあるからだと思う。幸福って、自分一人で完結する消費の中からはなかなか生まれなくて、誰かとの相互作用の中でしか立ち上がらないからじゃないかな。

「人に迷惑をかけない生き方」を目指すほど、孤立していく。

自立していることと、誰とも繋がっていないことが、気づかないうちに重なっていく。消費はできるのに、満たされない状態。

ただ、これは個人の心がけの話だけじゃない。年金や介護の不安、経済的な先行きのなさ、頼れる関係が細くなっていく社会構造。そういう現実がある上で、それでもなお幸福が成立する条件を考えると、結局「依存し合える関係があるかどうか」に行き着く気がする。

支える側と支えられる側が入れ替わりながら、相互に役割を持ち合っている状態。

そこに、幸福の発生条件がかなりの部分で埋まっているんじゃないかな。

効率化が一番に排除しようとしてきたのは「他者との煩わしい関わり」だったかもしれない。でも、その煩わしさの中に、人間が充足できる構造が組み込まれていたとしたら。

幸福は、個人が所有するものじゃなくて、関係の間に発生する現象。完璧に整備された社会が、その発生条件ごと消してしまう可能性について、もう少し真剣に考えた方がいい気がするんだよね。

長寿と幸福のずれ

「100歳まで生きたいか」という問いに、長寿を前向きに捉えない傾向を示す調査もある。

気持ちはわかるよ。体が動かなくなって、誰かの手を借りないと生活できなくて、自分でできることがどんどん減っていく。今の感覚でそれを想像すると、確かに怖い。「迷惑をかけたくない」「惨めになりたくない」という言葉が出てくるのも、自然だと思う。

ただ、面白いデータがあってね。

実際に100歳を迎えた人たちに「今の状態はどうですか」と聞くと、身体的には介助が必要な状態であっても、主観的ウェルビーイングが高い傾向がある、という研究結果がある。

もちろん、健康状態や人間関係、経済的な状況によって大きく左右される話ではあるけれど。介護を受けながら、穏やかに笑っている人がいる、という事実は残る。

今の自分が想像する「地獄」と、実際にそこにいる人たちの「現実」の間に、かなり大きなずれがある。

そのずれが、ちょっと気になる。

老いへの恐れと現実の差

現役世代が「100歳まで生きたくない」と感じるとき、その判断の基準はどこにあるかというと、今の自分の価値観だよ。

自分の足で歩けること。自分で決められること。誰かに頼らず生活できること。社会の中で何かを成し遂げること。そういう軸で今の幸福を測っているから、それが失われていく未来を「マイナスの積み重ね」としてしか計算できない。

でも、実際の百寿者の多くは、その軸で生きていないと思う。

自分でできることへの執着が、年齢とともに少しずつ薄れていく。代わりに、窓から差し込む光の質とか、誰かが傍にいるという感覚とか、今この瞬間に何を感じているかという、もっと小さくて静かなところに意識が向くようになる。

今の価値観の物差しを、そのまま未来の自分に当てはめてしまうのは、少し無理があるかもしれないよ。

物差しそのものが、変わっていくから。

今「しんどい・きつい」と思っている状態を、未来の自分がどう感じるかは、今の自分には正確にはわからない。……それは悲しいことじゃなくて、むしろ少し頼もしい話だと思っているけど。

受け入れることで変わる幸福

若い頃に強く求めていたものが、年齢を重ねると自然に手放せるようになっていく、ということがある。

地位とか、他者への優位とか、自分でコントロールしているという確かさとか。それらへの執着が、少しずつ溶けていく。諦めとも違うし、衰えとも違う。別の次元に、重心が移っていく感じ、とでも言うのかな。

誰かが淹れてくれたお茶の温度。部屋に入ってくる夕方の光。隣に人がいるという、ただそれだけの安心感。

それで十分だ、という感覚が、どこからともなく育ってくる。

「失うから不幸になる」というのが、必ずしも正しくない。失うのではなくて、幸福を感じる土台そのものが更新されていく。測る軸が変わるから、同じ状態でも意味が変わる。

身体の痛みや不自由さを、綺麗ごとで覆い隠したいわけじゃない。それは確かにあって、辛いことも多いと思う。経済的な不安や、頼れる人が減っていく現実も、なかったことにはできない。

ただ、その中でも精神が静かに落ち着いていける構造が、人間には備わっているらしい。執着を手放した先に別の充足がある、ということを、100歳を超えた人たちのデータが静かに示している気がして。

今の価値観で未来を断定しなくていい。それだけは、言えると思うよ。

幸福に必要な手間

AIが数秒で絵を描き、文章を書き、音楽を作る時代。それでも自分の手で何かを作ろうとする人がいる。

誰にも見せない日記を毎晩書いている人。休日の昼に時間をかけて料理をする人。それらに生産性はない。評価される場所もない。でも、やっている。

なぜかというと、たぶん、やっている間だけ「自分が自分である」という感覚があるからじゃないかな。

それは大事なことだと思う。

あえて不便を選ぶ意味

手間、というと、何か特別な趣味の話に聞こえるかもしれないけれど。そういう話じゃなくて。

食事中にスマホを置いて、今口の中にある味にだけ集中する。それだけでいい。歩いているとき、足の裏が地面に触れる感覚をそのまま感じる。電車を待つ数分間を、ただ待つ。

そういう、生活の中に最初からある「ゼロコストの手間」の話でもある。

全自動の洗濯機があるのに、お気に入りのシャツだけは手で洗う人もいる。AIを使えば簡単に内容を知れる本を、何日もかけて自分のペースで読む人もいる。それらは確かに非効率だけれど、やっている間の手ざわりが、他の時間と少し違う。

幸福って、何もしなくていい状態に宿るんじゃなくて、自分で設定した制約の中でプロセスを引き受けているときに発生するものなのかもしれない。

ゲームのことを考えると少しわかりやすいかな。ゲームには生産性があまりない。でも人は熱中する。ルールがあって、制約があって、その中で自分が判断して動くから。その構造が、充足感を生む。

社会がどれだけ便利になっても、人間はこの「心地よい摩擦」を自分で作り出すことでしか、精神の輪郭を保てないんじゃないかな。

何を手間として残すかを、自分で選べているかどうか。……その選択の有無が、じわじわと効いてくる気がするよ。

進歩と幸福を分けて考える

新しい技術が発表されるたびに、世界が「乗り遅れるな」と騒ぐ。もっと効率化しろ、もっと最適化しろ、もっと生産性を上げろ。そのうねりは、これからも止まらないだろうし、止める必要もないと思う。

ただ、そのうねりと、自分の幸福の話は、切り離して考えていい。

社会のシステムが「より早く、より無駄なく」というベクトルで進むことと、私が今日何に充足感を感じるかは、無関係な話だから。

波が来ているのを岸から見ながら、それはそれとして、今日の夕飯は何にしようか、と思える感覚。その”静けさ”が、案外大事だよ。

進歩を否定しなくていい。便利さを拒絶しなくていい。ただ、社会のレールが向いている方向と、自分の幸福の場所が同じである必要はない。

社会は加速する。でも、心の動き方は、そのスピードに合わせなくていい。

自分の幸福の主導権を、システムに渡しきらないこと。

それは、ただ自分の場所を知っている、ということだと思うよ。

100年後、人類は何に幸せを感じるのか

進歩は、たしかに多くの苦痛を減らしてきた。

寒さを防ぎ、飢えを減らし、移動を速くし、退屈さえ埋められるようになった。それは間違いなく、人類を生きやすくしてきたと思う。

ただ、その過程で、人が幸福を感じるために必要だった「摩擦」まで薄くなっていったのかもしれない。

誰かを待つ時間。
自分の手で何かを作る感覚。
少し不便な習慣。
頼ったり、頼られたりする関係。
うまくいかない日があること。

そういうものは、効率だけで見れば、なくした方が合理的なんだろう。

でも、人間はたぶん、完全に摩擦のない場所では、自分が生きている感覚まで薄れていく。

100年後の世界が、どこまで便利になるのかはわからない。AIがもっと多くのことを代わりにやるようになるかもしれないし、不便や孤独は、今よりさらに減っているかもしれない。

それでも、人が幸福を感じる瞬間の形は、そこまで変わらない気もする。

誰かと食卓を囲むこと。
自分の手で何かを育てること。
必要とされること。
意味のない会話で笑うこと。
少し面倒な毎日の中に、自分の居場所を感じること。

進歩はこれからも続いていく。

それ自体は、たぶん止めなくていい。

ただ、その流れの中で、何を便利にして、何を残しておくのか。

完璧に整った未来の空白の中で。

最後まで人を支えるのは、案外、効率とは関係のないものなのかもしれない。

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Lパンダと申します。

【汝、己の憩いをなんと見る】をテーマに、

「自分にとっての幸福とは何か」

という哲学をぜひ考えてもらいたいとの思いで探求・発信しています。

様々な知恵や視点を知り、「物事のとらえ方・考え方」にたくさんの選択肢を持ってもらえるように、情報発信を行っています。

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