私たちの身体を形作っている原子のほとんどは、数年も経てば入れ替わってしまうらしい。だとしたら、かつての「私」は一体どこへ消えてしまったんだろう。
もし、あなたがこれまでの記憶をすべて失くしてしまったとしたら。それでも、あなたは「あなた」のままでいられるかな?
過去という唯一の拠り所が音を立てて崩れたとき、最後に残る「何か」。
ずっしりとした重力、耐えがたい空腹、突き刺すような痛み。自分の思い通りには動いてくれない、この不自由な肉体があるからこそ、「私はここにいる」って、叫びたくなるのかもね。
この記事では、身体と精神が擦れ合うことで生まれる「質感」を軸に、「人間の本体」がどこにあるのかを考えてみたよ。理屈を突き詰めた先で見つかる、心地よい納得感。
まずは、このあやふやな自分を、一度丁寧に解体するところから。
身体から「人の本体」を定義する難しさ

たいていの人は、自分っていう存在を「この肉体」そのものだと思っているよね。腕をつねれば痛いし、静かな夜には心臓の鼓動だって聞こえてくる。「ここに私がいる」と感じるのは、ごく当たり前で、自然な感覚だと思う。
でもね、この「肉体」っていう拠り所。
突き詰めていくと、結構脆くて、頼りないものだってことが分かってくるんだ。
テセウスの船が示す身体の不確かさ
「テセウスの船」っていう有名な思考実験。
ある船の古くなった部品を、長い年月をかけて一つひとつ新しいものに取り替えていく。そうして最終的に、すべての板や釘が入れ替わってしまったとき。その船は、果たして「元の船」と同じだと言えるのか。
そして、取り替えたパーツでもう一隻船を作ったら、一体どちらが「元の船」といえるのだろう?
っていう思考実験。
これ、実は人間にもそっくりそのまま当てはまる話なんだよね。
私たちの身体は、新陳代謝によって絶えず入れ替わっている。
皮膚は数週間で剥がれ落ちていくし、血液も筋肉も、時間をかけて少しずつ新しい原子に置き換わっていく。もちろん、脳の神経細胞や骨みたいに、一生を共にする長生きな細胞もあるけれど、身体の大部分は数年も経てば「総入れ替え」に近い状態になっちゃう。
つまり、物理的な「モノ」だけを見れば、数年前のあなたと今のあなたは、共通するパーツがほとんどない「別人」に近い状態なんだよ。
ちょっと、川の流れを想像してみて。
目の前を流れている水(物質)は、一秒ごとに移り変わっているよね。でも、私たちはそれを「同じ川」だと認識して、名前を呼ぶ。
身体も、それと同じじゃないかな。物質そのものが本体なんじゃなくて、流れ続ける中での「形」や「機能」だけが維持されている。ただの「現象」に過ぎないんだ。
そう考えると、身体という「物質」を自分自身の本体だと定義することには、どうしても無理があるんだよね。
切り離しで揺らぐ境界線
じゃあ、身体の「境界線」って、一体どこにあるんだろう。
私たちは、自分の爪や髪を大切に手入れするよね。でも、ハサミで切り落とされて、床に転がった瞬間。それは途端に”自分ではないもの”に変わってしまう。
つい数秒前までは「自分の一部」として認識していたはずなのに、身体から離れた瞬間に、ただの無機質な物質へと格下げされる。
この違いって、何なんだろうね。物理的に繋がっているかどうかの差でしかないのに、私たちの感覚の中では、そこには決して越えられない壁がある。
この境界線、実はかなりあやふやなんだよ。
たとえば、使い慣れた道具を自分の手足のようにスイスイ操る感覚。あるいは、事故などで手足を失った人が、精巧な義手を「自分の腕」として脳が受け入れていく「身体所有感」っていう現象もある。
脳は、皮膚の内側だけを自分だと思っているわけじゃないみたい。うまく制御できて、ちゃんと反応が返ってくるものであれば、道具だって自分の一部として取り込んでしまうんだ。
結局のところ、身体の境界線っていうのは、皮膚っていう物理的な膜が決めているんじゃない。
私たちの「感覚」や「認識」が、勝手に引いたラインに過ぎないんだよ。
肉体を”本体”だと信じ切っているのは、私たちが思っている以上に、根拠のない思い込みなのかもしれないね。
【この章のポイント】
- 私たちの身体の大部分は代謝によって数年で入れ替わる
- 物質的に見れば、数年前の自分と今の自分に完全な同一性はない
- 身体の境界線は物理的な膜ではなく、脳の認識が決めている
- 肉体そのものを「本体」と呼ぶには論理的な限界がある
記憶は「人の本体」の根拠となり得るか

肉体が入れ替わり続ける「器」に過ぎないのなら、次に私たちがすがりたくなるのは何だろう。たぶん、脳の中に積み重なった「思い出」や「経験」……つまり「記憶」っていうデータだよね。
「今の私があるのは、これまでのことを覚えているからだ」
そう考えるのは、ごく自然なこと。けれど、その強固に見える砦も、実は砂の城みたいに脆い…。
「スワンプマン」が暴くアイデンティティの断絶
ここで、ちょっと不思議な思考実験を一つ。哲学者のドナルド・デイヴィッドソンが話した「スワンプマン(泥男)」のエピソードだよ。
ある男がハイキングに出かけて、運悪く沼のほとりで雷に打たれて亡くなってしまったとする。その瞬間、偶然にも沼の泥が化学反応を起こして、亡くなった男と原子レベルで全く同じ構成の人間が生まれた。
これがスワンプマン。
スワンプマンは、男の記憶も、性格も、身体の傷跡までも完璧に持っている。彼は自分が雷に打たれそうになったと思い込んで、平然と男の家に帰り、家族と食事をして、いつもの仕事をこなす。家族も友人も、誰も彼が入れ替わったなんて気づかない。
さて、このスワンプマンは、沼で亡くなった男と「同じ人物」かな?
周りの人から見れば、彼は間違いなく「あの人」だよ。
けれど、亡くなった本人からすればどうだろう。
本人の意識は沼のほとりでぷっつりと途切れていて、スワンプマンがどれだけ精巧に自分のふりをしていても、それを「自分」だと感じる主体はもうどこにもいない。
どれだけ完璧に記憶というデータがコピーされていても、そこに「私」という主観的な視点が宿るとは限らないんだ。
また、記憶がコピーできるなら、同じ記憶を持った人物が10人、100人と増えたとき誰が「その人」なんだろうか?
記憶が同じだからといって、それが本体の証明にはならない……。
考えれば考えるほど、なんかわからなくなるような話だよね。
睡眠と忘却による連続性の消失
スワンプマンの話は極端すぎるって思うかもしれない。でも、私たちも毎日、似たような体験を繰り返しているんだよ。
それが「眠り」。
特に深い眠りの間、私たちの意識的な自己感覚は一時的に消えてしまう。その間、「私」という主観はどこにも存在しないんだ。朝、目が覚めたとき、脳が「昨日の続き」の記憶を読み込むことで、私たちは疑いもなく自分を再開させているに過ぎない。
もしも、眠っている間にあなたの記憶がこっそり書き換えられていたら?
あるいは、スワンプマンみたいに別の個体に入れ替わっていたら?
残念ながら、それに気づく術を持っていないんだよ。
そもそも、私たちの記憶って驚くほど不確かなもの。思い出すたびに自分に都合よく編集されたり、美化されたり。時には、全く身に覚えのない記憶が植え付けられることだってある。
脳科学で見ても、記憶はビデオテープみたいに保存されているんじゃなくて、思い出すたびにその都度「組み立て直される」不確かな情報なんだ。
もし「記憶=本体」だとしたら、物忘れをするたびに自分の一部が死んで、間違った思い込みをするたびに別の人間に入れ替わっていることになっちゃう。
記憶っていう過去のデータは、今の自分を説明する「材料」にはなっても、自分という存在そのものを支える「本質」と呼ぶには、あまりに頼りない。
【この章のポイント】
- 記憶やデータが完璧に一致しても、主観的な「私」が引き継がれるとは限らない
- 深い睡眠による意識の断絶は、毎晩「私」の連続性を途切れさせている
- 記憶は想起されるたびに再構築される不確かな情報に過ぎない
- 過去の記録(記憶)は、今の自分を証明する絶対的な根拠にはならない
【考察】人の本体は「反応の癖」に宿る
身体は常に入れ替わり続ける器で、記憶はどこまでも頼りない記録。だとしたら、私たちは一体どこに「自分」という輪郭を求めればいいんだろうね。
ここで、少し視点を変えてみよう。
「何を持っているか」っていう静止画みたいな考え方は一度捨てて、今この瞬間に世界とどう向き合っているか……。
その「動き」の中に、本体の正体を探ってみるんだ。
神経回路が刻む世界への重み付け
私はね、人の本体っていうのは特定の物質やデータなんかじゃないと思っているよ。外から入ってきた刺激に対して、どう反応するか。
その「プロセスの偏り」にこそ宿るんじゃないかな。
例えるなら、自分っていう存在は「何かが詰まった箱」じゃない。光をその人独自の角度で屈折させる「レンズ」みたいなものだよ。そのレンズがどう歪んでいるか、その歪み方こそが、代わりのきかないあなた自身の正体なんだ。
たとえ記憶をすべて失くしたとしても、その人の「笑い方」や「怒るポイント」、あるいは「ふとした瞬間の眼差しの優しさ」は、そう簡単には消えない。
これは、脳の神経回路が長い時間をかけて作り上げた、独自の「重み付け」だから。
たとえば、窓を叩く激しい雨音を聞いたとき。ある人は「落ち着くね」なんて言って本を開くし、ある人は「なんだか怖いな」って肩をすぼめる。このとき、意識するよりもずっと速いスピードで、脳内ではその人だけの解釈が行われているんだよ。
この、無意識のうちにやってしまう「世界の受け取り方の癖」。
これこそが、本体の正体だと思わない?
同じ景色を見ても、人によって色の濃淡や心の波立ち方は違う。他人の目や脳を借りて世界を見ることは、誰にもできないからね。
自分だけの「感じ方のフィルター(クオリア)」は、長い年月をかけて神経細胞が編み上げた、たった一つのものなんだよ。
記憶っていうデータが消えても、世界をどう解釈するかという「スタイル」が残っている限り、その人はその人であり続ける。
肉体の不自由が生む実存の質感
もし、私たちの意識をすべてコンピュータの中に移せたとしたら、どうなるだろうね。 そこには老いも病気もない。お腹が空いて苦しむこともない。思ったことが瞬時に叶う、完璧な世界。
でも……それは果たして「生きている」って言えるのかな。
私たちの「本体」を実感させてくれるのは、皮肉にもこの「思い通りにならない肉体」。
重たい足を一歩ずつ踏み出すときの気だるさや、空腹を満たしたときのお腹の温かさ。 これらは全部、肉体っていう「制約」があるからこそ味わえる質感なんだよね。精神と肉体の間に生じる、ジリジリとした「摩擦」のようなもの、かな。
この不自由な身体という抵抗があるからこそ、私たちは「今、ここに私がいる」っていう確かな熱量を感じることができる。
「制限があるからこそ、自分という輪郭が保たれる」
完璧で自由すぎる世界では、自分と外側の境界線なんて、きっと溶けてなくなっちゃう。
あなたが感じる「ままならなさ」や「痛み」。
それこそが、あなたが他の誰でもない「個」として存在している証明なんだよ。
【この章のポイント】
- 本体の正体は「何を持っているか」ではなく「どう反応するか」という癖にある
- 世界を独自のフィルターで解釈する「反応のスタイル」は代替不可能
- 記憶が消えても、神経回路に刻まれた「振る舞い」は残る
- 肉体の「不自由さ」や「抵抗」こそが、生きている実感(実存)を生み出している
外部へ染み出す「本体」

これまでは、自分の身体や記憶といった「内側」ばかりに目を向けてきた。
でも、ちょっと考えてみて。私たちは、たった一人きりで、誰とも関わりのない真空のような場所で、ずっと「自分」であり続けることなんてできるのかな。
そんな空間にいたら溶けて消えてしまいそう…。
実はね、「私」という存在の輪郭は、皮膚の内側にきゅっと閉じこもっているわけじゃないんだ。
むしろ、外側の世界へと滲み出しているものなんじゃないかな。
道具や他者との関係性に浮かぶ輪郭
さっき、切り落とした爪や髪は自分じゃなくなるって話をしたよね。でもね、その逆もあって、ただの「モノ」だったはずのものが、いつの間にか「自分の一部」になっていくこともあるんだよ。
一番分かりやすいのは、スマートフォンかな。
今の私たちにとって、あれはもう単なる便利な道具じゃないよね。大切な人の連絡先、積み重なった写真、日々のとりとめないメモ。スマホを家に忘れたとき、単に「不便だな」って思うだけじゃなくて、なんだか自分の体の一部をもぎ取られたような、居心地の悪い不安に襲われない?
それはね、あなたの脳がスマホを「外部の記憶装置」として、すでに自分の一部だって認めちゃっているから。これを哲学者のアンディ・クラークとデイヴィッド・チャーマーズは「拡張された心(The Extended Mind)」って呼んだんだ。
それから、他者との関係も同じ。
「優しい自分」も「ちょっと皮肉屋な自分」も、相手がいて初めて引き出される反応だよね。誰もいない世界じゃ、あなたは自分がどんな人間なのかを知ることすらできない。
大切な人を亡くしたとき、胸にぽっかりと大きな穴が開いたように感じるのはね。その相手の中に預けていた「その人といる時の自分」が、相手と一緒に消えてしまったからなんだと思う。
私たちの本体は、自分一人の中にあるんじゃない。他者っていう鏡に反射した「光の束」のようなもの。関係性の数だけ、あなたは外側の世界に染み出しているんだよ。
語り手としての意識
脳科学には、ちょっと面白い知見があるんだ。
ベンジャミン・リベットっていう生理学者の実験が示唆しているんだけど、私たちが「よし、右手を挙げよう」って心で決めるよりも先に、実は脳がもう「動かす準備」を始めている……っていう説。
もちろん、「意識は動く直前に『やっぱりやめる』っていう拒否権(veto)なら持っているんじゃないか」っていう反論もあって、今でも議論は続いているんだけどね。
でも、少なくとも「意識がすべての絶対的な司令塔だ」っていう私たちの感覚は、科学的にはかなり怪しいものなんだよ。
意識っていうのは、脳が勝手に決めたことを後から追いかけて、「私は今、こういう理由で動いたんだよ」って説明をつける「広報担当(語り手)」に近いのかもしれない。
バラバラな記憶、
その時々の衝動、
外からの刺激。
それらは本来、一貫性のないバラバラな現象に過ぎないんだ。それを強引に繋ぎ合わせて、「私はこういう人間だ」っていう一つの物語を作り上げる。その「編集作業」そのものが、私たちが「本体」だと信じているものの正体なんだよ。
自分という存在が、カチッとした固形物じゃなくて、絶えず書き換えられ、語り直される「一つの物語」なんだって捉えてみる。
【この章のポイント】
- スマホや道具は、すでに「拡張された心」の一部になっている
- 自分の人格は他者との関係性の中で「反射」として作られる
- 大切な人の喪失が苦しいのは、自分の一部が失われるからでもある
- 意識の本質は「自分」という一貫した筋書きを紡ぐ広報担当に近い可能性がある
「本体」を自ら定義する

身体は入れ替わり、記憶もあやふや。おまけに意識さえも「後付けの語り部」に過ぎない。自分の足元がふわふわと浮き上がるような、少し心細い感覚を抱いているかもしれないね。
でもね、大丈夫。ここからが、本当の「自分」の始め方なんだよ。
中心が空っぽの空白だからこそ、そこには何でも描ける自由がある。
一度、そう捉え直してみようか。
正解のない問いを「指針」に変える方法
「自分探し」なんて言葉があるけれど、私はあれに少し違和感がある。まるで、最初から完成品がどこかに埋まっていて、それを掘り出す作業みたいに聞こえるから。
そうじゃなくて、自分っていうのは「建築」に近いものだと思う。日々の何気ない選択というレンガを一つひとつ積み上げて、ようやく形になっていくものなんだよ。
ここで大切になるのが、自分の「アンカー(碇)」をどこに置くか、自分で決めてしまうこと。科学的な正解なんて、別に求めなくていい。
「私は、誠実であろうとする姿勢を本体にする」
「私は、この大切な人を守るという関係性を本体にする」
「私は、この仕事を通じて生み出す価値を本体にする」
そうやって、自分が「これを大切にしたい」と心から思う価値観を、仮の本体として据えてみるんだ。
「実存は本質に先立つ」なんていう難しい言葉もあるけれど、要は「まずここに存在していて、その後にどう振る舞うかで自分が決まる」っていうこと。
過去の性格やこれまでの失敗は、それはただの「記録」に過ぎないんだ。それよりも、今この瞬間に「どうありたいか」を基準にして動くこと。その「振る舞い」の積み重ねが、やがて誰にも壊せないあなたの輪郭になっていく。
「本当の自分ならどうするか」と内面を掘るんじゃなくて、「なりたい自分なら、ここでどう動くか」って、未来に向かって問いかけてみて。
答えを外に求めるのをやめた瞬間、あなたは自分の人生の主導権を、しっかりとその手に取り戻せるはずだから。
【この章のポイント】
- 「本当の自分」は探すものではなく、選択によって作るもの
- 科学的な正解よりも、自分が何を大切にするかという意志を優先する
- 過去の記録に縛られず、未来への「振る舞い」を本体の拠点にする
- 自らアンカーを下ろすことで、あやふやな自分に一本の筋を通す
揺らぎ続ける「私」と共に生きる

もう一度鏡の前に立ってみる。そこに映っているのは、数年で中身が入れ替わり、不確かな記憶を抱え、周りの環境に左右されて揺れ動く……なんとも心もとない存在。
でも、その姿の見え方が少しだけ違っているんじゃないかな。
「人の本体はどこにあるのか」という問いに対して、結局、カチッとした「物」を見つけることはできなかった。けれど、それは決して悲しいことじゃないんだよ。
「私」っていうのは、固定された石ころのようなものじゃない。燃え続ける炎や、流れ続ける川のような、「現象そのもの」なんだから。
「私」っていう現象
川は、そこを流れる水が常に入れ替わっていても、全体としてずっと「川」であり続けるよね。
炎だって、燃えるガスが次々と通り過ぎていくだけなのに、一つの炎としてそこに存在している。
私たちも、それと同じ。
物質や情報がどれほど流れていっても、今この瞬間に何かを感じて、世界に応答している。その「動き」そのものが、あなたという存在の正体なんだよ。
「自分が何者かわからない」という不安は、あなたが今まさに、新しく生き直している証拠でもあるんだ。
もし、本体がガチガチに決まった動かないものだとしたら、私たちは一生、その設定から逃れることはできないでしょ?正解がないということは、あなたが明日、今の自分とは全く違う「反応の癖」を選び取ったっていい……そんな、究極の自由を意味しているんだよ。
理屈でバラバラに解体してしまえば「私」は見えなくなってしまうけれど、指先に触れる温度や、胸の奥に灯る小さな感情は、間違いなくここにある。
この、理屈では割り切れない「矛盾」を抱えたまま、あやふやな自分を面白がって生きていく。それこそが、人間に許された最高の贅沢であり、尊厳なんだと私は思うよ。
答えを急ぐ必要なんてない。揺らいで、迷って、それでも「今」という質感を大切に噛みしめる。
正体不明の自分と一緒に、この不確かな世界をどう歩いていくか。
その手綱を握っているのは、他の誰でもない、今この言葉を受け取っているあなた自身なんだから。
【この記事のポイント】
- 人の本体は「物」ではなく、絶えず変化し続ける「現象」である
- 身体も記憶も不確かだからこそ、今の自分を自由に定義できる余白がある
- 肉体の不自由さや他者との関係の中に、生々しい「自分」の質感が宿る
- 過去の記録に縛られず、今この瞬間の「振る舞い」を積み重ねていく
- 「わからない自分」を否定せず、その揺らぎと共に生きるのが実存の知恵
このサイトでは、こうした古今東西の知恵を手がかりに、私たちが日々をより幸せに、そして豊かに生きていくための「考え方」や「物事の捉え方」を探求しているよ。
もし、興味があれば、他の記事も覗いてみてくれると嬉しいな。
きっと、新しい発見があるはずだよ。
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