「辛いのはみんな一緒だよ」
……それで、この辛さは軽くなるのだろうか。
たぶん、ならない。
同じように苦しんでいる人が他にもいたとしても、”今ここにあるこの辛さ”がなくなるわけじゃない。
その言葉を聞いた瞬間、この辛さが「よくあること」として片づけられてしまうような気持ちになる。
自分だけが特別苦しい、って主張したいんじゃない。
埋もれて、「みんなそうだから」で終わってしまう。あの感じが、きっと嫌なんだ。
「みんな辛い」が苦しくなる理由

優しい言葉のはずが、届く場所を間違えると、そのまま痛みに変わる。
慰めなのに苦しくなる
うまくいかなかった日。なんか嫌だな、ってしんどいとき。「大丈夫?」と聞かれて、答えに詰まる。
そういう時に返ってくる。
「みんな辛いんだよ」
言った本人に、たぶん悪気はない。むしろ励まそうとしてくれている。分かっている。分かっているのに、ちょっと苦しい。
受け止めてもらえなかった感覚
欲しかったのは、慰めじゃなくて、そのまま映してもらうことなんだと思う。「辛いんだね」って、感じたままを認めてもらうこと。それだけでよかった。
それなのに「みんな辛い」という言葉は、こちらの気持ちをいったん脇に置いて、空想上の「みんな」の中へ、押し込んでしまう。感情がそのまま届くことをバリデーション、個別の輪郭を無かったことにされることをインバリデーションと呼ぶ人もいる。
否定されたわけじゃない。ただ、無かったことにされた。
そっちのほうが、よっぽど堪える。
前向きが求められる空気
それに、今の空気そのものが、少し関係しているのかもしれない。
常に前向きで、常に頑張っていて、常に大丈夫でいることが、いつの間にか当たり前になっている。
「元気出して」も「みんな辛い」も、根っこは同じ。辛いという感情を、早く終わらせようとする圧力。
トキシック・ポジティビティ、なんて呼び方まであるくらいだから、この息苦しさを覚えている人は、たくさんいるのだろう。
「みんな辛い」の向き
でも、この言葉そのものが悪者というわけでもなさそうだ。
間違った言葉ではない
「みんな辛い」という発想には、自分を助けるための道具として、ちゃんと名前がついている。
セルフコンパッションという考え方の中に、「共通の人間性」という言葉がある。辛いのは自分だけじゃない、誰にでも起きる。そう捉え直すことで、自分を責める手が、少しだけ緩む。心理学者クリスティン・ネフが2003年に整理した、自分への思いやりの一部だという。
「みんな辛い」は、間違った発想じゃない。
むしろ、心を守るための、よくできた仕組みのひとつ。
自分に向けるか、人に向けるか
だとすると、何が違ったのか。
同じ言葉でも、誰が誰に向けるかで、まるで別物になる。
自分で自分に「まあ、こういう時もあるよね」と言うのと、他人から「みんなそうだよ」と言われるのとでは、届く場所が違う。自分のペースで選んだ言葉と、外から押し込まれた言葉。
同じ処方箋でも、自分で選んで飲むのと、無理やり口に入れられるのとでは、体の反応が違う。
同じ発想。逆の温度。
傷ついたのは「向き」
だから、あの時感じた苦しさは、言葉そのものへの反応じゃない。
向きへの反応。
自分の中から外に向けて出てくるはずだった言葉が、あろうことか外から先回りして飛んできた。
それだけで、同じ言葉が、まるで違う意味を持つようになる。ごちゃ混ぜの感情が、「苦しい」の一言で表現されてしまった、あの気持ち。
言葉じゃない。向き。
「みんな辛い」に隠れた迷い

言った側にも、そんなに大した準備はなかったりする。
相手も言葉に迷っている
目の前で誰かが沈んでいる。何か言わなきゃ、という焦り。でも、気の利いた言葉なんて、そう都合よく出てこない。
そういう時、”手近にある言葉”についつい手が伸びる。「みんな辛いよ」は、たぶんその中でも一番、手に取りやすい言葉。不器用ではあっても、沈黙よりはマシだと思って選ばれた言葉、なのかもしれない。
悪意はたぶん無いんだと思う。
たぶん、そのくらいの話。
善意と心の距離
心配してくれているのは、本当かもしれない。でも、心配することと、寄り添うことは、似ているようで別の動き。
心配してくれている。でも、その人は、まだ岸の上に立っている。
寄り添うというのは、そこから一段降りてくる動きなのかもしれない。
「みんな辛い」は、時々この降りる一歩が抜けてしまう。向こう側から言ってる。
理解はできる。
……でも、理解できることと、飲み込む必要があることは、別の話。
「みんな辛い」と比べない
向きだけの話でもなさそうだ。比べる、という行為そのものも、どこかずれている。
辛さは比べるものじゃない
辛さには、目盛りがない。
企画を否定された痛みと、大切な人との間に亀裂が入った痛み。同じ「辛い」という言葉でも、中身の形はまるで違う。積み重ねてきたものや、その時の温度によって、痛みの色は一つひとつ変わる。
誰かの10と、自分の3は、そもそも同じ定規で測れない。
それなのに「みんな辛い」は、全員をひとつの定規に乗せようとする。乗るはずのないものを、無理やり並べて。
比べられないものを、比べようとしている。それだけの話。
昨日の自分を見る
それでも、何かと比べたくなる瞬間はある。生まれつきの癖みたいなものだから、無理に消さなくていい。
比べたくなったら、隣の誰かじゃなくて、昨日の自分を見る。
一週間前より、少しだけ眠れた。今日は少しだけ、ゆったりした気持ちで過ごせた。食欲がなかった日から、お茶碗一杯を食べられる日に変わった。そのくらいの差でいい。
他人と比べる時ほどの派手さはないけれど、これだけは、ちゃんと自分のものとして残る。
「みんな辛い」と言われたら

同じ言葉を、また誰かから受け取る日が来るかもしれない。その時のための、いくつかの手札。
心を閉じてもいい
一番簡単なのは、何も返さないこと。
「そうですね」
それだけでいい。否定も肯定もせず、ただ受け流す。相手の言葉と自分の間に、薄いガラス一枚を置くようなイメージ。言い返す元気が残っていない時ほど、これが一番向いている。
感謝だけ受け取る
もう少し余裕がある時は、言葉の中の善意だけを拾う、という手もある。
トゲのある部分は置いておいて、「気にかけてくれて、ありがとう」とだけ返す。プレゼントの包装紙だけ受け取って、中身は静かに脇に置くような感覚。
相手を否定せずに、自分も守れる。悪くないやり方。
「私は」で伝える
本当に近い相手になら、正直に伝えたっていい。
「あなたはそう思うんだね」ではなく、「私は、少し寂しくなる」。
主語を自分に変えるだけで、相手を責めるつもりのない言葉になる。責められていないと分かれば、相手も耳をふさがずに済む。
声が震えるかもしれない。でも、その正直さが、関係を一段深くすることもある。
離れるという選択
どれも合わない時は、その場を離れていい。
「ちょっと飲み物を取ってくる」
理由はそのくらい軽くていい。心無い言葉が続く場所に、留まり続ける義理はない。雨が降ってきたら、傘をさすか、屋根の下に移る。それだけのこと。
守っているだけ。
比べない。それだけでいい

「みんな辛い」は、悪い言葉じゃなかった。おそらく、向きが違うだけ。
辛さは、誰かと比べるようにはできていない。
「みんな辛い」は、自分に向けた時だけ効く。それだけ分かっていれば、また同じ言葉を誰かから渡された日も、少し違う顔で受け取れる。
比べなくていい。
その言葉は、まず自分に向ければいい。
あの日の違和感も、間違いじゃない。
……ただ、向きが少し違っていただけ。
【こちらの記事も読まれています】




コメント