「今の暮らしに、満足していますか」
はい、と答える。嘘じゃない。
「では、もう何も望みませんか」
…少し、黙る。
持っているものに目を向ければ、満たされていると思える。暮らしに大きな不満があるわけでもない。
けれど、今の暮らしが好きなことと、まだ知らないものに惹かれることは、本当に矛盾しているのだろうか。
足るを知るというのは、どこまでを「十分」と考えることなのだろう。
足るを知っても、なぜ物足りないのか

満ち足りているかどうかは、持っているものだけで決まるわけじゃない。
今の暮らしをありがたいと思いながら、まだ知らないことに心が向く日もある。片方が本当なら、もう片方は間違いなのだろうか。
物足りなさは、満足できていない証拠として現れるとは限らない。
満足しているのに、まだ何かを望む
使い込んだマグカップから湯気が立つ朝。この時間が好きだし、これで十分だとも感じている。
その同じ朝に、本屋の棚の端で見かけた入門書がふと浮かぶ。ずっと触れてこなかった分野の、薄い一冊。今の自分に不満はないのに、そこへ手を伸ばしたい気持ちが、ちゃんとある。
今あるものに目を向けてきた時間は、無駄じゃなかったはずだよ。マグカップをいいなと思える感覚も、ほんものだし。
不思議なのは、満足と望みが同じ朝に並んで座っていること。矛盾かどうかは、いったん脇に置いておく。
今の暮らしに満足しているか。これから何を望むか。
この二つは、同じ問いではない。
欲求が残る=足るを知れていない?
こういうとき、最初に出てくる解釈はだいたい決まっている。
(感謝が足りないのかな)
その一言の裏には、小さな等式が隠れている。
欲しい気持ちがある。
だから満足していない。
だから、足るを知れていない。
三つの文が、いつのまにか一続きの結論になっている。でも切り分けてみると、別々の主張だ。欲しい気持ちがあることと、満足していないことは、同じなのかな?満足していないことと、実践に失敗したことは、同じだろうか。
どちらも、確かめないまま信じているだけかもしれない。失敗と決める前に、確かめられそうなことが、いくつか残っている。
ところで、足るを知るって、「欲しい気持ちを消すこと」だったっけ。
足るを知ることは、欲求を捨てることなのか

言葉は、意味だけで受け取られるとは限らない。「足るを知る」は、今あるもので満足する教えとして知られる一方、これ以上望まないことや、現状を変えないことのように受け取られることもある。
その読み方によって、満足することと前へ進むことが、対立して見えてくる。
満足することは、向上を諦めること?
足るを知ることと向上心は、両立しないのか。
原典は、どう並んでいるんだろう。
老子の第33章には、「知足者富。強行者有志。」という二つの句が続けて出てくる。足るを知る者は富む。強行者有志のほうは、力を尽くして行う者には志がある、と読む訳もあれば、志の強さに重きを置く読みもあって、注釈によって幅がある。
はっきり言えるのは、この二句が同じ章に並んでいる、というところまで。そこから、老子が満足しながら向上を目指す生き方を説いた、とまで言うのは飛躍になる。並んでいるだけで、二つをつなぐ言葉は書かれていないから。
逆に、「足るを知ることは向上を諦めることだ」と結論づけることもできない。原文がそう書いているわけではないからね。諦めと結びつけて読んでいるのは、読み手の側が足した部分かもしれない。
満足していることと、何も望まないことは、同じじゃない。
少なくとも、この二句を並べて読む限り、同じものとして扱う必要は見当たらない。
欲求があること自体、問題なのか
向上を諦めなくてもいいのなら、欲しい気持ちは野放しでいいのか。今度は反対側の不安が顔を出す。
第46章には、「禍莫大於不知足、咎莫大於欲得」という句がある。不知足、つまり足るを知らないことと、欲得、つまり得ようとすることが、大きな災いとして挙げられている。
前段は馬の話。道のある世では、足の速い馬も畑仕事に回される。道のない世では、軍馬が郊外で生まれる。統治者の欲が戦を呼ぶ、という文脈で読まれることが多い。個人の買い物や向上心だけを扱った文章じゃないよ。
注意したいのは、この章が、欲求が生まれることと、際限なく追うことを、はっきり区別して書いているわけではない点。そこから直接答えを引き出すことは、できない。
だから問いは、自分の暮らしに持ち帰ることになる。
欲しいと思うことと、それをどこまでも追うことは、同じなのか。同じでないなら、どこで分かれるのか。欲求があるかどうかより、どう追っているか、代わりに何を差し出しているか。そこを見る余地は残っている。
それで、追った先に、ちゃんと満足はあるんだろうか。
欲しいものを手に入れれば、満足できるのか

欲しいものを手に入れれば、気持ちは満たされる。少なくとも、手に入れる前にはそう思っている。けれど、欲しさが強かったことと、得た後にどれだけ喜べるかは、同じ尺度では測れない。
手に入れた瞬間の喜びも、その後に続く満足も、欲しさだけでは決まらない。
欲しい気持ちが強くても、喜びが大きいとは限らない
カメラを買う前の時間を思い出してみる。比較サイトを何時間も眺めて、レビュー動画を見比べて、カートに入れては戻す。
箱が届いて、開けて、数日は夢中で撮る。そのうちに、落ち着く。
振り返ると、調べていたあの時間のほうが、胸が騒いでいたかもしれない。
欲しさが強ければ、手に入れた喜びも大きいはず。そんな期待を、誰も口には出さずに持っているよね。
Berridge と Robinson(1998)は、「欲しい」と求める働きと、実際に「快い」と感じる働きが、同じではないことを論じた。動物実験を含む神経科学の研究をもとにした説明なので、カメラを買う日常の場面にそのまま当てはめることは控えたい。
それでも、欲しさと快さを同じものとして扱わなくていい、という糸口にはなる。
Wilson と Gilbert(2005)は、人が将来の感情の強さや長さを、実際より大きく見積もりやすいことを論じている。理由の一つに挙げられているのが、”注意がその対象に集中して、他の出来事の影響を考えに入れにくくなる”こと。
カメラを持った自分を想像するとき、頭の中にはカメラとその自分しかいない。現実の毎日には、仕事も天気も気分も混ざってくるのに。
欲しいという気持ちは、その対象を求める強さを伝えてくれる。でも、手に入れた後の喜びの大きさまでは分からない。
手に入れる喜びがうそだと言いたいわけじゃない。ただ、欲しさの強さと、手に入れたあとの喜びは、分けて眺められるということだよ。
満たされたはずなのに、なぜ次が欲しくなる?
届いた日の高揚は、数日で普通になる。そして気づくと、次を求めている。
また?と自分に呆れる前に、少し寄り道してみたい。
Brickman、Coates、Janoff-Bulman(1978)は、宝くじの高額当選者22人と対照群22人を比較し、以前の調査で得られていた、事故で麻痺を経験した29人のデータも参照した。
当選者は対照群より幸福度が高いわけではなく、日常の小さな出来事から得る喜びは、むしろ少なかったと報告されている。
説明として挙げられたのは、大きな出来事と比べると小さな喜びが色あせることと、繰り返しで慣れていくことだった。
とても古い研究で、人数も多くない。結果をそのまま日常に広げるのは危うい。それでも、満足の基準が動く、という見方は残る。
基準が動くのなら、次が欲しくなるのは、感謝が足りないせいとは限らない。慣れていく仕組みの上を、みんなが歩いているだけかもしれないから。
けれど、この説明だけで全部が片づくとも思えない。資格を一つ取ると、隣の資格が目に入る。あの感じは、慣れとは少し違う気がする。
欲求の出発点は「不足」だけではない

手に入れたものに慣れて、次が欲しくなることはある。けれど、何かを知った途端、知らなかった分野まで気になり始めることもある。
どちらも「もっと欲しい」という形をしていても、心が向かう先は同じとは限らない。
欲求には、不満を埋めるだけでは説明できない動きもある。
不足を埋める欲求、好奇心から生まれる欲求
一つ資格を取ったあとのことを思い浮かべてみて。関連する分野が、急に目に入るようになる。前の資格が普通になったから、というだけじゃない。取る前には見えなかった棚が、見えるようになったんだ。
欲求を見分けようとする試みは、ずいぶん昔からある。エピクロスは、欲求を「自然なもの」と「空虚なもの」に分け、自然な欲求のなかでも必要なものとそうでないものを区別した。解釈には幅があるけれど、欲求を一枚岩として扱わなかったことは確かだよ。
好奇心については、Loewenstein(1994)が、知識や理解の隙間に気づいたときに生じる、一種の欠乏感として説明している。何も知らない分野では、隙間そのものが見えない。少し知ったから、見えるようになる。
不足にも、二つの顔がある。
「暮らしの欠けや不安を埋めたい不足」と、「知らないことに気づいたときの不足」。
後者は、生活に不満がなくても起こる。
好奇心も、分からないことがあるという感覚から生まれる。その不足は、今の暮らしへの不満とは限らない。
もちろん、好奇心がいつも軽やかとは限らない。気づけば義務感や焦りに変わっていることもあるし。
同じものを望む理由は一つとは限らない
資格を取りたい理由は、一つじゃないことが多い。認められたい。仕事の選択肢を増やしたい。知識が欲しい。単純に、面白い。一つの欲しさの中に、いくつもの理由が溶けている。
しかも途中で入れ替わる。
認められたくて始めた習い事が、いつのまにか上達そのものが面白くなっていることがある。反対に、自分の興味から始めたはずの活動が、成果や比較に追われて、休むことに罪悪感を覚えるものへ変わることもある。
Sheldon と Elliot(1999)は、自分の関心や価値観に沿った目標ほど努力が続きやすく、達成したときにも幸福感につながりやすいというモデルを、縦断的な調査データで検討した。
Kasser と Ryan(1993)は、金銭的成功を人生の中心的な目標とすることが、心理的な健康や幸福感の低さと関連する傾向を報告している。どちらも相関を含む研究で、原因まで決められるわけではない。金銭的成功を中心に置く話は、日常で言う他人軸と同じ意味でもない。
それでも、何を望むかと、なぜ望むかが、別の軸だということは見えてくる。
誰にも知られなくても、それを欲しいと思うか。
この問いは、承認がどのくらい混ざっているかを測る一つの目安になりそうだよ。人とのつながりや評価に意味がある場合もあるから、承認が混ざっているだけで悪い欲求、とは言えないけれど。
理由が分かっても、その欲求の価値が決まるわけではない。
欲求がある=従うべき、ではない

欲しいと感じることは、自分の中に望みが生まれたということ。それだけで、すぐ手に入れる必要があると決まるわけではないし、反対に、抑え込まなければならないとも限らない。
欲求があることと、どう応じるかの間には、自分で選べる時間がある。
欲しいものの先に、求めている経験がある
カメラが欲しいとき、求めているのは機材そのものなのかな。写真を撮る楽しさかもしれないし、上達していく実感かもしれない。誰かに見てもらうことかもしれない。
欲しいものの名前は、求めていることを表す”一つの言い方”にすぎない可能性がある。
たとえば今のスマホで、いつもの道を撮ってみる。それで欲求の一部が満たされる人もいるだろうね。機材そのものに価値を感じるなら、代わりにはならないけれど。
「なぜ欲しいのか」を重ねていく問いも便利。でも動機は一本の筋とは限らないし、後から理由をつけていることもある。答えが出なくても、”問い直す動き”だけで足りるときがあるよ。
望みは、すぐに叶えなくてもいい
欲しい、と思ったとき、買うか、我慢するか。二択のように感じやすい。
欲しいと思う気持ちはそのままに、すぐには動かずにいることもできる。欲求を持つことと、それに従うことは、別なんだよね。
旅行は、計画している間も楽しいでしょ。地図を広げて、行き先を絞って、天気を調べる。叶える前の時間にも、ちゃんと喜びがある。望んでいる間には、手に入れた瞬間とは別の味がある。
見送ることが、いつも正しいわけでもない。先延ばしにしているうちに、機会が去ってしまうこともあるし。
エピクロスは、快楽を無条件には選ばず、後でより大きな不快が来るなら見送ることもある、と考えた。後で払う代償を見積もるための物差し、として受け取れる。
置いておくうちに、欲しさの形が少し変わる。そう話す人もいるけれど、全員にそうなるとは言えない。
欲求を追うと、何が増えて何が減る?
学ぶことは、楽しみや関心を増やしてくれる。同時に、休む余裕が減ることもある。買い物は、趣味の世界を広げてくれる。同時に、比べすぎて疲れることもある。
同じ欲求でも、増えるものと減るものは、人によっても時期によっても違う。理由だけでは、その欲求の価値は決まらない。
取り組んでいる最中の喜びと、結果を得る喜びは、どちらかを選ぶものでもない。どちらも生活の中に置ける。
見るための物差しは、そう多くない。
- 何が増えているか。
- 何が減っているか。
- それは今の自分にとって、釣り合っているか。
- 学ぶことを続けるなら、知識やできることが増えているかに加えて、続ける時間が負担になっていないか。
- ほかに大切にしたい時間を削っていないか。
得られるものと、その代わりに使っている時間や労力を、具体的に思い浮かべてみる。
万能の基準はなくて、そのたびに見直すくらいが、ちょうどいい。
「足るを知る」と欲求の関係を考え直す

生活に大きな不満はない。それでも、知りたいことがある。今あるものに満足していることと、まだ知らないものに惹かれることは、どちらか一方を選ばなければならないものではない。
欲しい気持ちが生まれたとき、それが何から来ているのかは、すぐには分からないこともある。不足を埋めたいのか、知らないことに触れたいのか。手に入れた先に何を求めているのか。考えてみても、きれいに答えが出るとは限らない。
それでも、欲しいと思ったことだけで、今の暮らしへの感謝が足りないと決める必要はないし、望みがあるからといって、すべてを追いかける必要もないよ。欲求をなくすことと、欲求に振り回されずにいることは、別の話だから。
足るを知ることは、望みをすべて手放すことなのだろうか。
それとも、今あるものを受け取りながら、まだ見ぬものにも手を伸ばせることなのだろうか。
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