何だろう。なんか今日は遠い。
ちゃんと一日を過ごしている。いつもの場所にいて、いつものことをしている。それなのに、目の前のものが、少しだけ離れているように感じる。
嫌なことがあったわけじゃない。寂しかったわけでも、疲れ切っていたわけでもない。
こういうとき、「何が足りないんだろう」と考え始める。けれど、足りないものを一つずつ並べてみても、どれも決定打にはならない。あるものは、ちゃんとある。
欲しいと思っていたものを手に入れたあとにも、人は虚しくなる。
足りている。
でも、噛み合わない。
そういう場所にも、虚しさは現れる。
なぜ虚しいんだろう。
何もないわけじゃない。
それなのに、今日は少し遠い。
虚しさは「何かが足りない」だけではない

何かが足りないと思うと、つい足りないものを探したくなる。でも、持っているものが増えれば満たされるとも限らない。人とのつながりや日々の予定があっても、どこか空いていることはある。
だから、量だけでは見えないものもある。
寂しさ・退屈・疲れと「虚しさ」は違う
「悲しい」と言ってみる。少し違う。
「寂しい」にしてみても、まだ外れている。
「疲れた」は近いけれど、それだけでもない。
言葉を当てては外れていくうちに、結局「虚しい」に戻ってくる。そんなこともある。
境目は、はっきり引けるわけじゃない。それでも、近さの違いはある。
悲しみは、何かを失った感覚が前に出やすい。
寂しさは、人とのつながりを求める感覚が前に出やすい。
退屈は、関われる何かがほしいのに見つからないときの落ち着かなさ。
疲れなら、気持ちより先に体が重くなることがある。
虚しさは、何が欠けているのか自分でも定まりにくい。何かを失ったわけでも、誰かがいないわけでもないのに、”空いている”。だから、自分でも持て余しやすいのだと思う。
D’Agostinoら(2020)のレビューでも、虚しさは一つの決まった感情としてではなく、身体的な感覚、人とのつながりの切断感、満たされなさや目的の見えにくさなど、複数の側面を持つ経験として整理されている。
だから「虚しい」で止めずに、少しだけ細かくしてみる価値はある。
寂しさ寄りか、疲れ寄りか、退屈寄りか。
割り切れなくても構わない。三つが混ざっているなら、混ざったままで置いておけばいい。
「問題がないのに虚しい」と感じる理由
仕事は回っている。人間関係も、特別に悪いわけじゃない。ごはんは食べられるし、休みの日に行く場所もある。
それなのに、ふとした拍子に空いた感じが顔を出す。
こういうとき、”足りないもの”を探しても見つからないことがある。不足がはっきりしているわけではないから。見えにくいのは、今あるものと、自分が求めているものの噛み合いなのかもしれない。
人には恵まれているのに、本音はほとんど出せていない。予定は詰まっているのに、どれも自分で選んだ感じがしない。どちらも量は足りていて、ただ噛み合っていない。忙しいことと、充実していることは、同じではない。
もう一つ、厄介なものがある。
虚しさの上に、「こんなことで虚しいなんて」が乗ってくること。恵まれているのだから、幸せなはず。そういう方向にまでなると、虚しさに自責まで重なって、さらに重くなる。
問題があるかどうかと、虚しいかどうかは、別の話。
探すなら、不足より、「何が噛み合っていないのか」のほうが手がかりになる。
虚しいときは、何が噛み合っていないのかを見る

同じ「虚しい」でも、疲れている日と、変化が少ない日に必要なものは違う。休んだほうが戻ることもあれば、少し動いたほうが戻ることもある。
大切なのは、虚しさを一つの原因に決めることより、その日の状態との噛み合わせを見ていくことなのだと思う。
疲れているなら、まず休む
疲れているなら、何かを始めるより”先に休んだほうがいい日”がある。
好きだった曲を流してみても、耳を通り過ぎていくだけ。見たかった動画にも手が伸びない。
「何のためにやっているんだろう」と考え始める、その少し手前で、体のほうがもう重くなっている。そんなときは、意味の問題より先に、疲れのほうを見る。
疲れが強いと、いつもなら楽しめるものが、うまく入ってこないことがある。だから「自分の人生には中身がないのかも」と大きな話にする前に、いったん休んでみる。まずはそれくらいでいい。
休むというのは、何もしない時間を増やすことだけじゃない。今週の予定をひとつ外す。寝る時間を削らない。通知や刺激から少し離れて、何も足さない時間をつくる。三十分でもいい。
一つ、見落としやすいところがある。
休日にずっと寝て終わった日のほうが、夕方になって虚しさが増すこともある。横になっていた時間と、休めた時間は、同じとは限らない。布団の中でスマホを見続けて、休んだはずなのにまだ疲れている。そんなこともある。
目を閉じる。
湯船に浸かる。
窓の外を眺める。
刺激を足さずに過ごす時間をつくる。それも休み方の一つ。
それでも、何日かゆっくりしてみて、ほとんど変わらない。そういうときは、疲れ以外の見方も必要になる。
単調な毎日には、小さな変化を入れる
毎日が同じ道、同じ時間、同じ味。
それでも、生活として悪いわけじゃない。安定している日常には、それなりの良さがある。
ただ、同じことが続くうちに、選べる場面まで少しずつ減っていくことだってある。昼は同じ店、帰りは同じ道、休日も同じ流れ。気づくと、時間を自分で選んでいるというより、決まった流れに乗ったまま過ぎていく。
ここで大事なのは、変化の大きさじゃない。
変化が足りないのではなく、選べることが少なくなっている場合もある。
前は嬉しかったものが、いつのまにか普通になっていることもある。好きだったコーヒーが、ただの習慣になっている。これは感受性が鈍ったという意味ではない。慣れてくれば、”以前ほど強く意識しなくなる”ものもある。
だから、変えるなら小さくていい。帰り道を一本ずらす。入ったことのない店で昼を食べる。いつもと違う時間に外へ出てみる。どれも大きな準備はいらない。
自分で選んで変えた、という感覚が残ることのほうが大切な場合もある。
旅行でもして生活ごと変えようと思ったのに、計画を立てること自体が面倒になる日もある。その日は、無理に足さなくていい。疲れが強いなら、さっきの話に戻って、まず休んだほうが合っているからだ。
道を一本変えると、見慣れた角の向こうに、知らない花壇があったりする。それだけのことでも、いつもの時間に”小さな違い”が入る。
人とのつながりが薄いなら、一人と話す
人とのつながりが薄いなら、人数を増やすより、一人と話すほうが合うことだってある。
大勢で笑って、手を振って別れる。そのあとの帰り道で、冷める。そんな日。
反対に、一人と五分話しただけで、少し戻ってくる日もある。差を決めるのは、人数だけじゃない。
孤独については、単に一人でいる時間の長さではなく、「こういう関係がほしい」という自分の望みと、実際の人間関係とのずれから捉える考え方がある。PerlmanとPeplau(1981)も、孤独を社会的な関係の不足と、その人が望む関係とのずれという観点から整理している。
だから、賑やかな場所にいても、本音を出せなければ寂しさが残ることもあるし、逆に、一人にきちんと話せるだけで、少し戻ってくることもある。
話す内容は、近況報告じゃなくてもいい。今日、駅で見かけたこと。昼に食べたもの。帰り道で変な看板を見つけたこと。それくらいのささいな話を、一人に向ける。
浮かぶ相手がいないなら、無理に作らなくてもいい。
それは、また別のときに考えればいいこと。
「誰かのために動くといい」という話もよく聞くけれど、これも条件つきだと思う。自分で選んだ小さな形なら合うことがある。たとえば、「ありがとう」を具体的に一言伝える。それくらいでもいい。
反対に、頼まれごとですでに削られているときは、尽くすほど虚しさが増すこともある。
足りないのが「与えること」ではなく、「自分の分」の場合もあるから。
頑張っているのに手応えがないなら、大切なものを見る
頑張っているのに手応えがないとき、足りないのは努力の量だけとは限らない。
資格は取れた。昇進もした。周りから見れば順調で、本人だけがどこか落ち着かない。頑張ったはずなのに、手応えが落ちてこない。
ここでは、手応えを二つに分けて考えてみる。
一つ目は、「終わった」という感触。これは小さく作れる。本を十ページ読む。机の一か所だけ片づける。昨日より少し長く歩く。動いて、終えて、少し進んだ。それだけでも、「今日は自分で動いた」という感覚が残る。疲れが強いなら、量をもっと減らせばいい。
二つ目は、「これは自分にとって大事なことだ」という感触。こちらは、量を増やしても埋まらないことがある。
その目標を追っていたとき、自分は”何を”大事にしていたのか。
評価されたかったのか
安心して暮らしたかったのか
好きなことを続けたかったのか
誰かに認めてほしかったのか
目標だけを見ていると、達成した瞬間に行き先までなくなったように感じる。でも、目標は終えられても、そのとき大切にしていた方向まで終わるとは限らない。
区切りのあとの空白も、ここに入る。卒業、異動、子どもの独立、長く続けた役割が終わった日。準備しているあいだ、その目標のまわりには予定や期待、人との接点がいくつもあった。それが区切りとともに減って、急に空いたように感じることがある。
次の目標を急いで作らなくてもいい。終わったことを、終わったと認める時間も必要だから。方向が見えない時間があることと、方向そのものがなくなったことは、また別のこと。
原因が分からないなら、虚しさのパターンを見る
原因が分からないなら、探し当てるより、虚しさがどんなふうに出てくるかを見るほうが手がかりになることがある。
「なぜ虚しいんだろう」と、昨日も考えた。今日も考えている。答えは出ないまま、同じ場所をぐるぐる回る。
自分の状態を振り返ること自体が悪いわけじゃない。
Treynor、Gonzalez、Nolen-Hoeksema(2003)は、反芻的な思考の中に、broodingとreflectionという二つの側面があることを示している。彼らの研究では、broodingのほうが抑うつとの関連が強かった。考えることと、考え込み続けることは、同じではない。
だから、問いの向きを少し変える。
いつ強くなるのか。
何をしたあとなのか。
何をしているときは、少し薄れるのか。
どれも、すぐ答えが出なくて構わないよ。
あわせて、「虚しい」を少し細かくしてみる。寂しさ寄りなのか、疲れ寄りなのか、退屈寄りなのか。
人と話したあとに薄れるなら、つながりが関わっているのかもしれない。一人で静かにしたあとに薄れるなら、刺激が多すぎたのかもしれない。自分で予定を決めた日に軽いなら、選べる感じが関わっているのかもしれない。
診断じゃなくて、小さな実験のようなもの。試してみて、合わなければ別のものを見る。
原因を一発で当てなくてもいい。虚しさが強くなる条件が分かってくるだけでも、自分への対応は変えられる。
それでも、よく分からないままの日はある。そのときは、分からないまま置いておいていい。
虚しさを急いで埋めなくてもいい

手が止まると、何かを足したくなる。予定でも、刺激でも、考えごとでもいいから、空いたところを埋めたくなる。でも、埋めることと、満たされることは同じじゃない。
何も足さずに、その感覚がそこにある時間も、ときには必要になる。
忙しさや刺激だけでは、虚しさは埋まらない
予定を全部こなして、帰りの電車に乗る。吊り革を握った瞬間に、さっきまでの笑い声がすっと遠くなる。部屋の電気をつけたときにも、似たことがある。
こういうとき、虚しさがその場で新しく生まれたとは限らない。忙しさや人との時間に紛れていた感覚が、手が止まったことで見えてきた。そう考えると、少し分かりやすい。
すると、また何かを足したくなる。
予定を入れる。SNSを開く。買い物をする。何か食べる。気がまぎれるなら、それ自体は悪いことじゃない。楽しむために何かをするのも、もちろんいい。
ただ、「楽しみたい」より「感じたくない」が強くなっていないか。そこは一度見てもいい。
楽しんだあとに「今日はよかった」と残るなら、その時間には何かがある。反対に、手を止めるとまた虚しくなって、すぐ次を探したくなるなら、少し違うところを見たほうがいいのかもしれない。
忙しさで覆っていたものが、静かになったところでまた見えてくることもある。だから、戻ってくる虚しさは、埋め方が足りなかったとは限らない。
スクロールの手が止まった、その数秒。何が浮かんでくるのかを、すぐ消さずに眺めてみる日があってもいいと思う。
虚しさに大きな意味を求めすぎない
虚しい。だから、生きる意味を探さなきゃいけない。
そう考えて探し始めたものの、答えが見つからない。すると、「自分には何もないのかもしれない」と、また虚しくなる。
こんなふうに、意味を探すこと自体が負担になることもある。
虚しさは、いつも人生からのメッセージとは限らない。疲れているときにも起こるし、何かが一区切りついたあとにも起こる。慣れてきたときや、その日の体調によって、いつもなら気にならない空白が大きく見えることもある。
だから、虚しいからといって、すぐに「自分の人生には何かが欠けている」と大きな意味を与えなくてもいい。
もちろん、何度も同じ感覚が出てくるなら、生活の中で大事にしたいものとのずれを考えるきっかけにはなる。けれど、それも今日のうちに答えを出す必要はない。
意味を探す前に、いま感じているものへ戻る方法もある。
湯呑みを両手で包む。温かさが手のひらに残っている。食事なら、最初の一口の味を少しだけ意識してみる。床に触れている足の裏や、窓から入ってくる空気に気づいてみる。
内容自体はマインドフルネス的でよく言われるようなことだけど、それでもやってみる価値はある。
虚しさの理由が分かるわけではない。人生の意味が見つかるわけでもない。ただ、考え続けている場所から、いま触れているものへ注意を戻すことはできる。
虚しさを感じているときほど、答えを出そうとしない時間があってもいい。
虚しさが長く続くときは、別の見方も必要になる

虚しさという言葉だけでは、今の状態をすべて言い表せないこともある。楽しめない、眠れない、食欲が変わるといった変化が重なれば、見ているものを少し広げたほうがいい。
ひとつの言葉に収めようとしないことも、自分を知るための方法になる。
好きなことまで楽しめなくなっていないか
虚しいと、楽しめない。この二つは近くにいるけれど、同じものではない。
毎週見ていた番組を、今週は再生する気にもならない。好きだった店の前を通っても、足が止まらない。前なら少し動いた気持ちが…動かない。
こういうとき、本人は「虚しい」と呼んでいても、その中に興味や喜びを感じにくくなっている状態が混ざっていることがある。こうした「楽しみや喜びを感じにくい」状態をアンヘドニアと呼ぶことがある。
もちろん、好きなことが一度楽しめなかったからといって、すぐ何かを判断する必要はない。疲れている日なら、いつもの楽しみが入ってこないこともある。
見るなら、一つの症状ではなく、いくつかの変化が重なっていないか。楽しめない状態が続き、睡眠や食欲、疲れなどにも変化があって、仕事や家事、人との付き合いにも支障が出ているなら、一人で「気の持ちよう」と片づけないほうがいい。
眠り・食欲・集中力にも変化がないか
眠るまでに時間がかかる。
朝、いつもより早く目が覚める。
食べる量が変わった。
文章を読んでも、なかなか頭に入ってこない。
虚しさと一緒に、こうした変化まで出ているなら、気持ちの持ち方だけの問題にしないほうがいい。うつ病では、興味や関心の低下に加えて、睡眠や食欲の変化、疲労などがみられ、生活上の苦痛や機能の低下につながることがあると、厚生労働省の「こころの耳」でも説明されている。
何日か休んでも戻らない。
好きなことまで楽しめない。
眠りや食欲にも変化がある。
そんな状態が続いて、日常にも影響が出ているなら、一人で「気の持ちよう」と片づけなくていい。
そういう場合は、地域の相談窓口や医療機関など、専門の機関に相談したっていい。今の状態をそのまま話してみるだけでも十分。
そして、「しんどい」とか、「消えてしまいたい」という気持ちがあるときは、この記事の中だけで答えを探さないでほしい。
身近な人や専門の相談先につながってほしい。
虚しさを急いでなくさなくてもいい

虚しさは、いつも埋めるべき何かが足りないという知らせとは限らない。
疲れているだけの日もあれば、何かが一区切りついた日もある。長く続くなら、暮らしとのずれが見えてくることもある。だから、「虚しい」という一つの感覚だけで、今の自分を決めなくていい。
雨が上がった午後に、窓を少しだけ開ける。
濡れた土とアスファルトの匂いが、遅れて部屋に入ってくる。
吸い込んだ瞬間、胸の奥のほうに、何かが小さく触れる。ほんの数秒のこと。
すぐに薄れて、いつもの空いた感じが戻ってくる。
それでも、触れたことは本当にあった。
虚しさが残っていても、感じ取れるものまで消えたわけじゃない。何が必要なのか分からない日があってもいいし、休むほうが合う日も、少し変えてみるほうが合う日もある。
何が足りないのかを急いで決めるより、何が噛み合っていないのかを少し眺めてみる。そのくらいの距離から、自分の暮らしを見てみる。
濡れた道が乾いていくあいだ、窓は開けたままにしておく。
こちらも、このサイトで大切にしているテーマなので、よかったら覗いてみてほしい。



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