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個性とは何か|その人らしさの正体を考える

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ある場では「丁寧」と言われ、別の場では「神経質」と距離を置かれる。

同じ行為でも、場所が変われば意味も変わる。

性質はひとつのはずなのに、評価だけがいくつにも分岐していく。

もしそれが個性だとしたら、個性とは評価のことではなく、評価の手前にある”まだ名前のない偏り”なんだろう。

特徴を並べるたび、自分が“説明できる存在”に整形されていく。

けれど、それは本当に自分の輪郭なのだろうか。

個性とは何か。「自分には個性がない」の正体

その落胆は、観察から出ている。ただ、目を向けている先を、少し間違えているだけで。

「個性的」と「個性がある」は別もの

派手なもの、珍しいもの、目を引くもの。

ああいうのは、見た瞬間に分かる。服の色でも、話し方の癖でも、一秒あれば拾える差だから。人の視線は自然とそこに吸い寄せられて、「個性的だ」という言葉も、まずはそういう目立つ差に貼られやすい。

でも、実際に喋ってみると分かることがある。全身、隙のないブランドで固めていて、遠目には確かに個性的に見える人。近づいて話すと、出てくるのは意外と聞いたことのある言葉ばかりだったりする。悪い人ではない。ただ、輪郭がどこか薄い。

逆に、格好は地味で、特に語るところもなさそうな人が、ふとした一言の選び方や、間の置き方に、なんというか、”妙に濃い気配”を纏っていることがある。

目立つことと、その人らしいことは、そもそも別の軸にある。

前者は、外からぱっと拾える差の話。後者は、もっと奥で反復されている何か。似ているようで、重ならない。

地味な生活を送っているからといって、個性が「ない」ことにはならない。ただ、目立つ記号として出ていないだけ。

見つけにくいのと、存在しないのは、まったく違う話。

特徴を並べても「その人」にならない

とはいえ、じゃあ自分の個性は何かと聞かれると、途端に手が止まる。面接や自己紹介の場で「あなたらしさを」と言われて、頭の中から急いで拾ってくるのは、大体「粘り強い」とか「人と打ち解けやすい」とか「読書が好き」とか。

そういう、どこかで聞いたことのある言葉たち。

言いながら、少し変な感じがする。間違ったことは言っていないはずなのに、喋っている自分から、実感がすうっと抜けていく感覚。何かを答えたのに、何も言えていない。そんな後味だけが残る。

もちろん、そうやって自分を短い言葉に変換しなきゃいけない場面自体は、現実にちゃんとある。初対面で全部は説明できないし、履歴書に生活のリズムまで書けない。

ラベルを用意すること自体は、悪くない。ただ、そのラベルを「これが自分の個性そのものだ」と思い込んでしまうと、そこから苦しくなる。ラベルの奥で実際に動いている癖の方を、自分だけは知っておく。

「優しい」「真面目」「内向的」。

並べれば並べるほど、”スペック表を読んでいるような気持ち”になってくる。情報は増えているのに、その人の体温はむしろ遠ざかっていく。不思議。

苦しさの正体は、個性が空っぽだったことじゃない。個性を、提出できる部品として切り出そうとしたこと。そこに無理があっただけ。部品を並べても、その人にはならない。

だとすれば、誰かの「らしさ」をふっと感じ取る瞬間、目はどこに向いているんだろう。

個性とは何か。その人らしさはどこに宿るのか

何を言ったかより、なぜそう言ったのか。そこに目が引っかかる瞬間が、確かにある。才能でも長所でもない、もっと手前の場所に。

個性は才能や長所のことではない

絵が上手い人。数字にすぐ強くなる人。初対面でも自然に場を和ませる人。

そういう人を見ると、羨ましさと一緒に、小さな引け目みたいなものが混ざる。自分には、人に語れるような”突出した何か”がない。だから個性もない。……そう繋げてしまいがちだけど、そこには少し飛躍がある。

細かいことが気になって、すぐには動けない正確だとする。仕事の場では「丁寧だね」と言われる。でも休みの日に友人と出かけると、些細な段取りのズレが気になって、自分だけ楽しみきれない。

同じ性質が、場所を変えただけで、評価される部分と疲れる部分に分かれる。

人に合わせるのが得意な人にも、似たようなことが起きる。場では「優しい」で通るのに、家に帰ると、いつも自分の希望を後回しにしたことだけが残っている。

性質そのものは、何も変わっていない。変わっているのは、それを見ている周りの物差しの方

だとすると、才能や長所というのは、その性質が”ある場面でうまく働いたとき”に与えられる評価の名前でもあって、個性は、もっとその”手前”にある。うまくできるかどうかとは無関係に、どうしてもそうなってしまう。そこにしかない。

特別にできることがないから個性がない、というのは、多分、順番を間違えている。うまくできることを探す前に、もう自分の中で動いている、どうしようもない癖の方が先にある。

それが日常のどこで、どんな形で顔を出しているのか。

そっちの方が、案外見落とされている。

個性は「なぜそうするか」に出る

穏やかで、人に優しい人が二人いるとする。

片方は、相手を傷つけたくなくて、一呼吸置いてから言葉を選ぶ人。もう片方は、場の空気が悪くなるのが怖くて、先回りして丸く収めようとする人。傍から見れば、どちらも同じように「優しい人」で片付く。

でも、その内側で動いているものは、まったく別のものだ。

会議で、数字の細かい誤差が気になって仕方ない人がいる一方で、部屋の空気が少し張り詰めるだけで居心地悪くなる人もいる。同じように注意されても、恥ずかしさで顔が赤くなる人と、その理不尽さの方に先に反応してしまう人がいる。

行動だけ切り取れば似ているのに、何に引っかかったのか、どこで立ち止まったのかを見ると、まるで別の道を歩いている。

 

個性は、この「何をしたか」よりも、「なぜそうなったか」の方に、濃く出る。

 

優しい、社交的、慎重。そういう名前は、似たような動きをする人たちを、”雑に”ひとまとめにしてしまう。本当に見るべきなのは、その手前で起きている、小さな迷いや選び方の方。

厄介なのは、自分にとってその「なぜ」があまりにも自然すぎて、わざわざ見つめる理由がないこと。息をするのと同じくらい当たり前に、気づけば先回りしているし、気づけば細部に目がいっている。自分の内側で起きていることなのに、自分からが一番遠い。

それを先に見つけてしまうのは、大抵、自分ではない誰かだったりする。

他人が見る個性と、自分が感じる自分らしさ

褒められているのに、なぜか居心地が悪い。そういう瞬間には、大抵ちゃんと理由がある。

他人に見えるのは、内面より反応の癖

トラブルが起きた瞬間、頭が真っ白になって、ただ立ち尽くしていただけだったとする。後になって、「あの場面でも冷静だったね」と言われる。悪気なんて、まったくない言葉。

なのに、聞いた時にちょっとモヤモヤ。

冷静だったんじゃない。ただ、動けなかっただけなのに。

似たようなことは、意外といろんなところで起きている。衝突が怖くて意見を飲み込んでいただけなのに「協調性があるね」と言われたり。断るのが苦手で流されていただけなのに「柔軟だね」と言われたり。

褒め言葉のはずなのに、受け取るたびに、自分が何かを騙しているような、薄い罪悪感が残る。

これは、ズレていて当然のこと。誰かが見ているのは、自分の内側で起きていることの全部じゃない。外に漏れ出た、結果としての振る舞いだけ。真っ白になって固まっていたことも、怖くて言葉を飲んだことも、外からはただ「落ち着いている」「物腰が柔らかい」という一つの現象として映る。

中で何が起きていたかまでは、見えようがない。

もともと違う場所を見ている二つの視線が、たまたま一つの言葉の上で重なっているだけ。

じゃあ他人の言葉なんて全部聞き流していいのかというと、そう単純でもない。

他人の見方は、自分の輪郭を映すこともある

誰かと話していて、ふと言われることがある。

「結論を言う前に、一瞬だけ相手の顔色を窺うよね」

言われるまで、まったく気づいていなかった。自分にとってそれは、呼吸をするのと同じくらい当たり前の動きだったから。指摘されて初めて、それが誰にでもある動きではないと知る。

「そんな細部まで気になるんだ」と驚かれることもある。その驚きの方が、自分にとっては驚きだったりする。自分の目に映っているものは、標準ではなかったらしい。

自分では欠点だと決めつけていた粘り気のある確認癖を、別の人が「そういうところ、あなたらしいよね」と、まったく違う温度で拾ってくれることもある。

自分の反応は、自分にとって近すぎる。近すぎるものは、輪郭として見えない。目の前十センチのものにピントが合わないのと、同じ理屈。だから、誰かがふと言い当てる一言の方が、先に自分の癖を照らしてしまうことがある。

他人の言葉を、そのまま自分の本質だと決めつける必要はない。あくまで、その人から見えたものの話でしかないから。ただ、完全に無視してしまうのも、少し惜しい。自分では触れられない角度から、たまに正確な光が差し込んでくる。

そういう鏡としての機能は、確かにある。

そうやって、他人の言葉であれ、自分自身の経験であれ、少しずつ自分の輪郭が見えてくると、そこに映るのは、綺麗な長所ばかりではない。むしろ、直したいと思っている不器用さや、どうしても曲げられない硬さの方が、先に目につくことが多い。

個性は摩擦の中で見えてくる

頭の中をいくら覗いても、出てこない。探す場所を、そもそも間違えていることが多い。

自己分析だけでは個性が見つからない理由

性格診断を受けてみる。

ノートに自分の長所と短所を書き出してみる。何度やっても、「これが自分だ」というところまでは、なぜか届かない。診断結果に頷きながらも、どこかで他人事みたいな感触が残る。頭の中だけをいくら覗き込んでも、輪郭がはっきりしてこない。

でも、合わない職場に身を置いた時のことを思い出してみる。理不尽な言い方をされた時、他のことなら流せるのに、なぜかその一点だけはどうしても飲み込めなかったこと。

誰かとぶつかった時、自分でも驚くくらい強く反応してしまった場所。ああいう瞬間の方が、性格診断の結果よりずっと鮮明に、自分の形を教えてくれる。

凪いだ水面は、下に何があるか分からない。風が吹いて、水がざわついた時に、初めてそこにあったものの形が見えてくる。個性も似ていて、穏やかに過ごしている間はまだ輪郭として表に出にくい

思い通りにならない現実にぶつかって、譲れない場所や、曲げられない反応が表に出てきた時に、初めてそれと分かる形になる。

うまくいかなかった経験を、ただの失敗として仕舞い込んでしまうのは、少しもったいない。

あの時、自分が何に耐えられなかったのか。

そこにこそ、自分の形をした痕跡が残っている。ただ、そうやって見えてきたものは、大抵”きれいな”長所の顔をしていない。

不器用さや直らない癖にも個性は出る

人が話し終える前に言葉を挟まないよう、必要以上に間を置いてしまう。物の位置が少しでもずれていると、他のことが手につかなくなる。効率だけを考えれば、明らかに無駄な動きだと分かっている。直そうと意識したことも、一度や二度ではないはず。

意識して直そうとすると、確かに少し楽にはなる。話すテンポも軽くなるし、細部への拘りも減らせる。なのに、その分だけ、自分の手触りみたいなものまで一緒に薄くなっていく感じがする。

効率は上がったはずなのに、どこか味気ない。手放した分だけ、何かが軽くなりすぎている。

これは、欠点をそのままにしておけばいいという話とは少し違う。

調整できるところは、調整していい。配慮も、工夫も、続けていい。ただ、そうやって手を尽くしてもなお、どうしても残ってしまう硬さがある。改めようとする努力の中でも消えきらない、その”引っかかりの部分”にこそ、その人が世界をどう見ているかが、色濃くにじんでいる。

非効率で、扱いにくくて、時々自分でも呆れるような癖。

それを全部きれいに削ぎ落としてしまったら、残るのは、誰にでも当てはまるような滑らかな何かだけになる。少しの不便さと引き換えに、自分にしかない形が保たれているとしたら、それはそれで、悪くない取引なのかもしれない。

個性とは何か。見方が変わると、自分の輪郭が見えてくる

誰かが眩しく笑っている。

それを見て、自分には語るようなことが何もない気がした、ただ、見ていた場所が少しずれていただけで。目立つ差を探していたから、何も見つからなかった。探す道具を変えれば、見えるものははもう違うはず。

送るメールの文面を、必要以上に迷いながら選ぶ時間。会議で、言おうか言うまいか迷って、結局飲み込んだ一言。物の置き場所が少しでもずれているだけで、なぜか落ち着かなくなる数分。

効率で考えたら、全部そのまま流してしまえばいいようなことばかり、今日もきっと転がっている。

それを、今までのように「大した特徴もない一日」として片付けてしまうこともできる。でも、ああ、また自分はここで立ち止まるんだな。ここだけは、どうしても雑にできないんだな。……そういう風に、ただ見る。

個性を、外側のどこかに落ちている武器として探すようなことはしない。

見つけて、磨いて、誰かに見せるためのものじゃない。もっと近くで、もう動いている。迷い方、選び方、譲れない場所、どうしても不器用になってしまう瞬間。そういう小さな反応の積み重ねが、気づかないうちに、その人にしかない形を保っている。

きれいな長所でなくていい。役に立たなくてもいい。面倒で、非効率で、時々自分でも呆れるような癖。

それでも、その一つひとつが、確かに自分の輪郭をなぞっている。

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