この数字を変えれば、記憶力が高く生まれてくる。
……もし、そんなことができたら。
生まれる前の小さな身体に、ひとつ、能力を足す。
病気になりにくくする。学びやすくする。
「予防」と「強化」を、一緒にできる。
もしこれを日常生活だけでやろうとするなら、相当な努力が必要だ。
だからこそ、生まれる前にできることが増えたとき、「少しでも良くしてあげたい」という願いは、どこまで許されるのだろう。
「治療」と「強化」のあいだ。
「教育」と「遺伝子」のあいだ。
病気を避けるための選択から、能力を高めるための選択へ。
遺伝子をめぐる話は、いつの間にか、どんな人間を望ましいとするのかという話になっている。
デザイナーベビーとは何か。「選ぶ」と「書き換える」

「デザイナーベビー」は、一つの技術を指す言葉ではない。もっと広い、考え方そのものの名前。
着床前検査は「選ぶ」、ゲノム編集は「書き換える」
着床前検査は、体外受精で得られた胚の遺伝的・染色体的な情報を調べ、その結果をもとに移植する胚を選ぶための検査。
PGT-Aは染色体数の異常、PGT-Mは特定の重篤な遺伝性疾患、PGT-SRは染色体の構造異常を対象としている。日本では、日本産科婦人科学会の細則や実施施設の認定制度のもとで行われている。
ゲノム編集は、選ぶのではなく、受精卵そのものの遺伝情報を書き換える技術。
CRISPR-Cas9によって、狙ったDNA配列を改変する技術は大きく進歩した。ただ、意図しない場所が編集される可能性や、細胞ごとに編集結果が異なるモザイク、長期的な影響など、まだ解決していない課題もある。思い通りに書き換えられる技術、と考えるのは正確ではない。
すでにある選択肢から選ぶのと、選択肢そのものを作り替えるのとでは、似ているようで介入の性質が大きく違う。
「選ぶ」にも段階がある
ただ、選ぶ方にも幅がある。
PGT-A・M・SRは、病気や染色体異常を避けるための検査で、目的ははっきりしている。
これとは別に、多数の遺伝的要因から将来の病気のリスクなどを推定する、ポリジェニックな胚選別という新しい領域も出てきた。
身長や知能のような複雑な形質まで対象にする研究や議論もあるけれど、そうした形質を実用的なレベルで予測し、選べるほど技術が確立しているわけではない。今のところは、科学的にも倫理的にも議論が続いている段階。
医療目的なら善、それ以外なら悪。
そんな単純な線引きは、もうできない。
デザイナーベビーは、もうSFではない

SFの話として語られていたものが、2018年には現実の出生として現れた。
2018年、実際に生まれたゲノム編集ベビー
2018年、中国の研究者だった賀建奎が、CRISPRで受精卵を編集し、双子の女児が生まれたと発表した。目的は、HIV感染への抵抗性を持たせること。
査読を通った論文ではなく動画での発表だったこともあり、当初から検証の難しさが指摘されていた。それでも、国際的に大きな批判や懸念が広がり、中国当局はこの件を調査。賀は2019年、懲役3年と罰金の判決を受けている。
一つの受精卵に手を加えるということは、その子だけの話では終わらない。
変更は、その先の世代にも受け継がれる可能性がある。
普通の治療とは、そこがまるで違う。
それでも人間を自由に設計できない理由
ただ、これで遺伝子は自由に書き換えられると思うのは、まだ早い。
知能や性格のような複雑な特徴は、一つの遺伝子で決まるものではなく、無数の遺伝的な要因と、育つ環境との組み合わせで形になっていく。狙った通りの子を注文どおりに作る。
そんな技術は、今のところどこにもない。
できることと、できると思われていることの間には、まだかなりの距離がある。
デザイナーベビーを日本と世界はどう規制しているのか
できることと、許されることは、また別の話だから。
日本が2026年に引いた規制の線
日本では2026年7月17日、この分野に関する法律が国会で成立した。
正式名称は「ヒトゲノム編集胚等の取扱いの規制に関する法律」。
7月24日に公布されている。
法律の中心は、ゲノム編集したヒト胚等を人や動物の胎内へ移植する行為の禁止にある。それに関連する作成、譲受け、輸入、使用なども規制対象になっていて、違反すれば10年以下の拘禁刑か1000万円以下の罰金、あるいはその両方が科される。
研究そのものは禁止されておらず、国への届け出と、定められた指針に従うことが条件になる。
一方、着床前検査による胚の選択を、この法律が直接規制しているわけではない。
施行は2027年7月24日の予定。成立と公布は済んでいるけれど、全面的に運用が始まるのはまだ先で、指針や体制の細部は、その間に整えられていく。2026年に禁止された、と言い切ってしまうのは正確ではない。
世界も生殖細胞系列の編集には慎重
これは日本だけの話ではない。
WHOは2019年、遺伝するヒトゲノム編集の臨床応用を現時点で進めることは無責任だと表明し、2021年には、そのための国際的なガバナンス枠組みと勧告を公表した。
国によって法律の形は違っても、受精卵などの遺伝情報を改変して出生につなげることには、国際的にも強い慎重論がある。
賀建奎の一件が、この慎重さの理由の一つになっているのは、間違いない。
なぜ「治療」は受け入れられ、「強化」はためらわれるのか

同じ遺伝子への働きかけでも、目的が変わると、人の反応はまるで違ってくる。
近視、身長、老化速度。境界はどこにあるのか
重い遺伝性の病気を避けたい。そう聞けば、多くの人はうなずく。
でも、近視を治すのはどうか。身長を伸ばすのは。老化の速度を緩やかにするのは。アレルギー体質を改善するのは。
こうして並べてみると、「病気を避けること」と「人間をより良くすること」の境目は、思っているよりずっと曖昧。
数字に表れた「治療」と「強化」の境界
2018年、米国成人を対象にした調査では、生まれてくる子の重い病気を治療する目的の遺伝子編集について、72%が適切だと答えている。
一方、知能を高める目的については、適切だと答えたのはわずか19%。8割が、それは行き過ぎだと感じている。
これは米国という一つの社会での結果で、そのまま世界共通の答えではない。それでも、治療と強化のあいだに、人の感覚の中にすでに”線”があることは、この数字からも見えてくる。
それでもデザイナーベビーに惹かれる理由
反対する理由を並べる前に、惹かれる理由をしっかりと見ておきたい。
「子どものために」という願いは、間違いなのか
わが子の病気のリスクを減らしたい。
少しでも苦労の少ない人生を用意してあげたい。
こう考えること自体は、普通にあること。長く苦しんできた遺伝性の病気が家系にあるなら、その連鎖を断ち切りたいと願うのは、むしろ自然な愛情の形。
初期条件を変えると、人生はどう変わるのか
もし将来、ある能力に関わる初期条件を、安全に、予測できる形で変えられるようになったとしたら。……ここは、あくまで仮定の話。今の科学では、そこまでの精度は持てていない。
それでも、考えてみる価値はある。
もし学びやすさ(習得能力など)の初期値が少しだけ高い状態で生まれてきたら、勉強が苦にならず、練習も続けやすくなるかもしれない。
学びやすい、続けられる、経験が積み重なる。
そんな循環が起きる可能性もある。
条件が有利になるということは、選べる道が増えるということでもある。これを単なる欲望だと切り捨てるのは、乱暴。
……ただ、メリットが本物だからこそ、厄介でもある。
どこまでなら良くて、どこからが行き過ぎなのか。
その線引きが、急に難しくなる。
教育もまた、人間をデザインしている

その難しい線引きは、もっと身近なところにもある。
塾や進学に込められた「望ましい人間」
将来困らないようにと、良い大学、良い会社を目指すよう背中を押す。
子どもの自由な時間を削ってでも、塾や習い事のスケジュールを組んであげる。テストの点数が良ければ喜び、悪ければもっと頑張れるはずと発破をかける。他の子と比べて、優れているところ、足りないところを、つい気にしてしまう。
教育には、知識を身につける、社会に適応する、能力を伸ばす、将来の選択肢を増やすといった、いくつもの役割がある。
そのなかには、社会が求める能力を”後天的に伸ばす”という側面もある。
同時に、教育には、自分で考え、自分がどんな人生を望むのかを選べるようにする役割もある。だからこそ、「こういう人間になってほしい」という願いと、「自分で自分の人生を選べる人間になってほしい」という願いは、完全には同じではない。
教育は、知識を運ぶだけの行為ではない。
望ましい方向へ子どもを導こうとする行為でもある。
では、その「望ましい方向」を、誰が決めているのだろう。
教育と遺伝子介入は、何が違うのか
教育も遺伝子編集も同じなのか。……そうではない。
子どもの人生を良くしたいという動機。望ましい人間像を思い描くこと。環境や能力に意図的に働きかけること。ここは、確かに重なっている。
でも、決定的に違うところもある。
教育はやり直しがきくし、途中でやめることもできる。子ども自身が、成長する過程で抵抗したり、拒んだりする余地も残っている。遺伝子への介入は受精卵の段階で行われるから、本人の意思が入る隙間がない。
しかも変更は体の奥深くに刻まれて、簡単には戻せない。場合によっては、次の世代にまで及ぶ。
似ているところがあるからといって、同じ重さでは扱えない。それでも、なぜか同じ問いが顔を出してくる。望ましい人間像を子どもに投影することへの、居心地の悪さ。
環境でやるのは良くて、遺伝子でやるのはなぜ駄目なのか。
「より良い人間」は「より幸せな人間」なのか
能力を高めることと、幸せになることは、同じ方向を向いているとは限らない。
能力を高めても、幸福になるとは限らない
知能が高い。健康である。適応力がある。社会的に成功している。
こうした条件を並べると、いかにも良い人生に見えてくる。
でも、これらを満たした人が、必ず自分の人生を幸せだと感じるとは限らない。高性能であることと、幸福であることは、重なる部分もあるけれど、イコールではない。
何を効率化するのかで、意味は変わる
病気になるリスクを減らすことと、受験や仕事で成果を出しやすくすることは、同じ効率化という言葉でくくれても、意味はまるで違う。前者は苦しみを減らす方向、後者は競争に有利になる方向。
目的が変われば、その効率化が誰のためのものかも変わってくる。
それに、一人ひとりの能力が上がったからといって、社会全体が幸せになるとは限らない。むしろ、競争がもう一段厳しくなったり、周りに合わせなきゃという”新しい圧力”が生まれたりすることもある。
能力を高められるということは、”その能力を発揮しなければならない”という新しい期待にもなりうる。
高い能力を持てるなら、もっと努力できるはず。その力を活かさないのはもったいない。そんな考え方が広がれば、有利になったはずの条件が、いつのまにか”果たすべき義務”に変わっていく。
「こう作ったのだから、こうなりなさい。」って。
「できるようになったこと」が、そのまま「できなければならないこと」になってしまう。
個人にとっての合理性と、社会にとっての幸福は、必ずしも重ならない。
生まれる前の選択は、誰の幸せのためなのか

この選択をしているのは、いつも本人ではないというところが、引っかかる。
本人の同意なしに決められる人生
受精卵の段階で何かを選んだり、変えたりするとき、その判断をしているのは親であり、医療者であり、制度であって、本人ではない。
生まれてくる本人には、自分がどんな条件で生まれてくるかについて、意見を言う機会が存在しない。これは、普通の医療とはかなり違う構造。
親の願いと、本人の幸福は同じとは限らない
この能力があれば、この子の人生は有利になる。そう親が信じて選んだことでも、実際に生まれてきた本人が、同じ価値観で人生を歩むとは限らない。
親の安心のためなのか、社会的な評価のためなのか、それとも本当に子どものためなのか。
……この三つは、たいてい重なって見えるけれど、いつも同じ方向を向いているとは限らない。
「良い人間」という基準は、すでに社会にある
そしてこの基準、遺伝子技術が生まれるずっと前から、社会の中で動いている。
社会はすでに人間を能力で評価している
「選ぶ」か「書き換える」か。
この違いだけを見ていても、肝心なところは説明できない。何を望ましいとするか、という価値判断そのものは、技術の話の外側にある。
その価値判断は、もう社会の中に存在している。
学校では成績で評価され、受験では点数で選ばれ、就職や昇進でも、能力や成果が物を言う。
より高い能力を持つ人が有利になる場面は、日常のあちこちにある。
社会は能力の高い人間を求め、教育は、その能力を後天的に伸ばす仕組みの一つになっている。そうして育てられた「望ましい能力」が、やがて社会の標準になり、次の世代にも求められる基準になっていく。
もちろん教育の役割は、それだけではない。それでも、社会が求める能力を、できるだけ”効率よく身につけることが評価される構造”は、確かに存在している。
では、その育て方が、教育という後天的な働きかけだけではなく、遺伝的な初期条件の調整にまで広がったとしたら、どうなるだろうか。
その基準が、出生前に前倒しされるとき
デザイナーベビーが特別に恐ろしく見えるのは、この”選抜”という発想が、出生前という後戻りのできない地点にまで移動してしまう可能性があるから。
これまでは、生まれたあとに選ばれていたものが、生まれる前から選ばれるようになる。望ましいとされる特徴を持たない人への見方も、その分だけ変わっていくかもしれない。
障害や個性への評価にまで、影響が及ぶ可能性もある。
自由な選択が、新しい圧力になるとき

誰かに強制されなくても、圧力は生まれることがある。
高額な技術が、生まれる前から格差を生む
この種の技術は、決して安くない。利用に大きな費用が必要なら、それを払える家庭とそうでない家庭の間で、生まれる前から差がつく可能性がある。
努力ではどうにもならない、スタートラインの違い…。
これが固定化されていくとしたら、それはもう個人の選択の問題では収まらない。
すでにある教育や所得の格差に、生まれる前の初期条件の差まで重なれば、その違いは本人の努力だけでは埋めにくいものになっていく。
「使う自由」が「使わない自由」を奪うとき
最初は、使いたい人だけが使えばいい、という話だったはずなのに。
利用する人が増えていくと、みんな使っているのに、なぜうちは使わないの、という空気が、少しずつ生まれてくる。
誰も悪意を持っていなくても、一人ひとりの合理的な選択が積み重なるだけで、”社会全体の新しい基準”になってしまうことがある。
自由な選択のはずが、いつのまにか、選ばないことのほうが不自由になっている。……そういう逆転は、静かに起きるもの。
デザイナーベビーから残る、ひとつの問い

選ぶことと、書き換えること。治療と、強化。
教育と、遺伝子への介入。効率と、幸福。
親の願いと、本人の人生。
ここまで並べてきた対立は、どれもきれいに白黒つけられるものではない。線を引こうとするたびに、その線が動いていく。
社会は、どうしたって能力の高い人間を求める。
教育は、その能力を後天的に伸ばす仕組みでもある。
もし遺伝子によって、初期条件そのものまで調整できるようになったとしたら、デザイナーベビーは、その延長線上に加わるだけなのかもしれない。
デザイナーベビーという言葉が本当に問うているのは、その技術を使っていいかどうかだけではない。もっと奥にあるのは、私たちが何を良いと考え、何を幸せと呼んでいるのか、という問い。
病気がないほうがいい。
能力が高いほうがいい。
社会でうまくやれるほうがいい。
……こうした価値判断は、この技術が現れるずっと前から、もう日常の中にあった。
より良い人間と、より幸せな人間。
この二つは、本当に同じものなんだろうか。
親が選ぶ幸せと、生まれてきた本人が望む幸せは、いつも重なるものなんだろうか。
そして、誰が、何を基準に、その幸せを設計しようとしているんだろう。
その効率化は、誰を幸せにするのだろう。
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