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「生きてるだけで偉い!」が腑に落ちない!本当に偉いの?

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「ただ、元気に育ってくれれば」

最初は、純粋にその気持ちだったはず。

でも、だんだん”それだけ”じゃ物足りなくなってくる。

その違和感は間違っていない

何もできなかった一日の終わりに、そう声をかけられて。ありがとうと返しながら、内側では違う声がしている。

「本当に?」って。

その声を、無理に黙らせなくていい。

違和感で済ませれる範囲もあるけど、今回はどうも違う。かなり正確に、何かを知らせようとしている感じ。

先に、この一言そのものを見てみよう。その方が、腑に落ちると思うから。

「偉い」は何を褒める言葉なのか

「偉い」は行為に向かう言葉

テストで良い点を取った時、「偉いね」って言う。早起きできた日にも、同じ一言を使う。

共通しているのは、そこに”何かをした”という事実があること。

眠っている赤ちゃんを見て、「かわいいね」「幸せそうだね」とは言うけど、「偉いね」とはあまり言わない。何もしていないから。

「偉い」は、行為に向かって発生する表現なんだよね。存在そのものに向かう言葉とは、そもそも住んでいる場所が違う。

「偉い」が生まれる上下関係

学校でも、職場でも。

「偉いね」と口にする人は、大抵、”立場が上”にいる。

先生が生徒に。上司が部下に。親が子に。

「偉い」は、大抵、目上から目下へ向かう一言。

評価する側と、評価される側。そこには上下がある。

それを自分で自分にかけようとすると、内側で奇妙な分裂が起きる。評価する自分と、評価される自分が、同時に立ってしまうから。

慰めのつもりでかけた一言が、なぜかしっくりこない。その理由の一つが、ここにあるのかもしれないね。

私たちは、いつから評価されるようになったのか

 

生まれたばかりの頃を思い出せる人は、多分いない。だけど、想像はできるよね。

ふにゃふにゃで、小さくて。できることといえば、泣くことと眠ることだけ。(かわいい…)それでも周りは、その存在をただ喜んでいた。

そこには、条件なんてなかった。

…初めて立った日。

数秒よろけて、また座り込んでも、部屋にいた誰かが声を上げて喜ぶ。

…初めて歩いた日。

二、三歩で転んでも、拍手が起きる。転んだことより、歩いたことの方が大きく扱われる。

…初めて、字を書いた日。

歪んだ文字でも、壁に貼られたり、誰かに見せられたりする。

「できた」を、みんなが祝ってきた。

その積み重ねの中で、少しずつ、行為への一言が増えていく。悪意はどこにもない。むしろ、愛情の一つの形だったはず。

けれど、いつからか、行為の方にばかり言葉が集まるようになって。ただそこにいるだけの自分には、届きにくくなっていった。

 

そして気付けば、「できた」に向かう一言ばかりが増えていた。

 

……それだけの話。

「偉い」がしっくりこない場面

「休んでえらいね」に違和感がある理由

有給を取った日。「ちゃんと休めてえらいね」って言われて、なんだか居心地が悪くなる。

休むことは、何かを積み上げる行為ではない。むしろ、何もしないことそのものだから。

それを評価の物差しで測ろうとすると、変な捻れが起きる。褒められているのに、急かされているような気持ちになる。

不思議だよね。優しい響きのはずなのに。

「頑張ったね」と「しんどかったね」の違い

友達が「今日、しんどかった」って言った時。「頑張ったね、偉いよ」と返すのと、「そっか、しんどかったね」と返すのとでは、伝わる温度が違う。

前者は、行為を数えている。

後者は、状態をそのまま受け止めている。

どちらも優しさから出た返し方のはずなのに、とっさに「評価の方」を選んでしまうことが多いのはなぜだろう。

ただ寄り添う一言は、案外少ないんだよね。悪意ではなく、持っている”語彙の傾向”の話。

「生きてるだけで偉い」が届くとき

ここまでの話だけだと、「偉い、なんて使わない方がいい」って結論になりそうだけど。……そう単純でもないんだよね。

病室で朝を迎える人がいる。

今日も、目を開けるところから始める人がいる。

点滴の管をぼんやり見ながら、今日が来たことだけを、まず確かめる人もいる。

そういう場面で「生きてるだけで偉いね」と言うと、違和感なく届くことが、意外と多い。

そこでは「生きる」こと自体が、耐える、抗うという行為になっている。

そこでは、その一言がちゃんと届く。

一言そのものが間違っているわけじゃない。場面によって、機能する形が変わるだけ。

「偉い」が嬉しい場面もある

きっと、こう思う人もいるはず。

「私は偉いって言われると嬉しいけどな」って。

その人にとって、その場面が「行為」として受け取れる文脈になっているだけ。頑張った自覚がある人には、評価がそのまま届く。

感じ方の違いがあるのは、前提にしている場面が、そもそも違うだけ。

「偉い」以外の言葉を持つ

何もできなかった日に、自分に「偉いね」と言おうとして、言葉が出てこないなら。

別の一言を、そっと置いてみてもいい。

「今日も、おつかれさま」

そこには評価がない。できたとか、できなかったとか、そんな物差しはどこにもなくて。ただ今日を越えたことへの、労いだけがある。

自分に対してだけじゃなく、誰かに対しても同じ。「頑張ったね」の前に、「そっか」と一度置いてみる。それだけで、伝わる温度が変わる。

LINEで「おつかれ」だけ返す。それだけで、十分なときもある。

評価の一言を手放す必要はないよ。

寄り添う一言も、隣に置いておくといい。

腑に落ちないなら、そのままでいい

「生きてるだけで偉いよ」

その一言に、今も素直に頷けないなら。それでいいよ。

その違和感が間違いというわけでもないからね。

行為に向かうものと、存在に向かうもの。

その境目を、ちゃんと感じていただけなのかもしれないね。

 

無理に納得しなくていい。分かったふりをして、笑って流さなくてもいい。

腑に落ちないまま、それを抱えて歩いていく日があってもいいんだよ。

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【汝、己の憩いをなんと見る】をテーマに、

「自分にとっての幸福とは何か」

という哲学をぜひ考えてもらいたいとの思いで探求・発信しています。

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