おいしかった。ほんとうに、おいしかった。
食事がつまらなかったわけじゃない。
大きすぎる出費でもない。
それでも、純粋には楽しめなかった。
満足したことと、気兼ねなく満足できたことは、どうやら同じではないのだろう。
対価は払った。誰の邪魔もしていない。
それなのに、ふと頭をよぎる。
「こんなことをしていていいのだろうか」
贅沢という言葉には、豊かさを感じさせる響きと、控えたほうがいいものだと思わせる響きがある。
求めているはずなのに、目の前にすると避けてしまう。理由や言い訳を用意している時点で、素直には受け取れていないのかもしれない。
身の丈に合わないものを享受したときの、あの背伸びしたような落ち着かなさ。贅沢に慣れることが怖いのか、あるいは、贅沢に甘んじる自分が怖いのか。
満たされるほどに強くなる、この微かな拒絶反応。
余韻に混ざる罪悪感。
大切に扱われることに、なぜこんなにも怯えてしまうのだろう。
もっと純粋に受け取れたなら、もう少し幸せだろうか。
なぜ贅沢に罪悪感を持つのか?

贅沢をしたあとに残る後ろめたさは、支出そのものへの評価とは限らない。お金が減ることへの惜しさや、先々への不安、楽しむことへのためらいが重なっていることもある。
ひとつの感情に見えても、引っかかっている場所は人によって違う。
自分のためにお金を使うと、後ろめたくなる
友だちの誕生日プレゼントなら、5000円のものでも、迷う時間が楽しい。
相手の顔を浮かべて、これかな、あれかなって。レジへ向かう足も軽い。
同じ人が、”自分のため”の3000円のランチを前にすると、急に足が止まる。メニューを何度もめくって、「今日じゃなくてもいいか」と閉じる。金額だけ見れば、プレゼントのほうが高いのに。
迷いの中身を覗くと、お金の行き先が違う。
贈り物には、喜んでほしいとか、お祝いしたいとか、説明のいらない行き先がある。自分のランチの行き先は、「自分が楽しい」のひとつだけ。…それで足りるのか、どこかで確かめている。
もちろん、贈り物にも負担はある。お返しを考えて気が重くなる日もある。気になるのは金額の大きさより、同じお金に対する”構え方”のほう。
自分のものを買うときは、質問が増える。
- 必要か
- 役に立つか
- 先々のためになるか
- ほかに先に使うべきところはなかったか
この審査を通れば、納得して払える。通らないと、「ただ自分が楽しいだけ」が残って、少し居心地が悪い。
お会計を終えたあとも続く。
「本当に要ったのかな」
「もっと安いのでよかったかも」
自分のためにお金を使うことをためらう理由は、「自分を大切にできていないから」だけでは説明できない。将来への責任感かもしれないし、家計を預かる立場や、家族とのバランスが関係しているのかもしれない。
昔からの金銭感覚が残っていることもある。
お金を使うこと自体に、損をした感覚がある
旅行から帰って、カードの請求額を見る。
旅先では、ご飯もおいしかったし、宿の部屋も気持ちよかった。あの時間に文句はない。なのに、画面に並んだ数字だけ、急によそよそしく見える。
引っかかっているのは、家計が回らなくなるという種類の不安とは違う。
払える。生活にも響かない。
それでも、手元から”出ていった感じ”だけが残る。
お金は、使えば減る。当たり前だけど、減った分は別のことに回せたかもしれないし、持っていれば安心の材料にもなった。だから、手に入れた喜びとは別に、「選べるものが1つ減った」という感触がそっと生まれる。
「楽しみ」と「損した感じ」が、同じ出来事の中で同居している。
でもね、この惜しさを、取るに足らない癖みたいに扱うつもりはないよ。残しておく安心は本物だし、選択肢が守られることも本当にある。ただ、惜しさが大きいと、買ったものの価値まで見えにくくなる。そういうことは、起きる。
消費者行動の研究では、支払いに伴う心理的な不快感を「支払いの痛み」と呼ぶ。
Rickらは2008年の論文で、その感じやすさの個人差を測る尺度を開発した。支払いの痛みが強い人は、自分が理想とする額より支出を抑える傾向があり、痛みが弱まる状況では、そうした差も小さくなる。
会計の数字が頭から離れないときも、”支払いへの抵抗感”が関わっているのかもしれない。
惜しいと感じたことと、買ったものが良かったかどうかは、別の話。惜しかったから価値がなかったとは言えないし、惜しさがあるから正しい買い物だった、とも言えない。
後悔にも種類がある。
期待外れだったのか。予算を越えたのか。それとも、ただ手元から離れたことが寂しいだけなのか。
楽しむには、努力や成果が必要だと感じる
大きな仕事を終えた日の焼肉は、メニューをめくる手が軽い。
「今日は頑張ったから」
この一言があるだけで、追加のお肉もすんなり決まる。頑張ったという実感が、お金を使う理由になってくれる。
ところが、何もなかった休日のお昼に、同じ店の同じ焼肉を前にすると、手が止まる。
「今日は別に何もしてないし」
お金に余裕はある。食べたいのも本当。違うのは、その楽しみを認める理由があるかどうか。
許可を出す基準が、いつの間にか「払えるか」「欲しいか」から、「それに見合うことをしたか」へ移っている。ご褒美を悪く言うつもりはないよ。努力のあとの一口は、たしかにおいしいから。
ただ、証拠のない日の楽しみは、置き場所がなくなる。
誕生日や記念日なら迷わず買えるものが、普通の日には「今でなくてもいいか」に化ける。あれも、同じ根っこに見える。
買う前に口実を並べる場面もある。
「長く使えるから」
「仕事にも使えるから」
純粋に好きだから、というだけの理由は、なぜか少し弱い。
Keinan、Kivetz、Netzerの2016年の研究は、贅沢なものに小さな実用的機能を添えると、その買い物を正当化しやすくなって、贅沢への罪悪感が和らぐことを示している。しかも、付いてきた機能の価値や使う頻度を、実際より大きく見積もる傾向も報告されている。
これは努力や成果の話とは別の研究。それでも、「それだけでは足りない」という感覚は、近いところから出ているのかもしれない。
育った家庭や環境がお金の価値観をつくる
値札を見た瞬間に、頭の中で声がする。
「そんなの、もったいない」
自分の声のようで、よく聞くと少し違う。誰かの口調の感じがする。
買い物のたびに「もったいない」と言われて育った人。ねだると「そんなの要らないでしょ」と流された人もいるし、お祝いの日だけは気前がいいのに、普段の楽しみにはやけに厳しい家もある。家族が値段を見比べる後ろ姿を見ていたせいで、最安値を探さないと落ち着かない人もいる。
子どもの頃は、よその家と比べる機会が少ない。毎日聞く言葉は、比べようのない当たり前として入ってくる。大人になって、友人の家の話を聞いたり、別の暮らしを覗いたりして、ようやく気づく。
あれはひとつの家の流儀だったのか、と。
「もったいない」は、いつの間にかお金の話から、善し悪しの話に混ざる。人によっては、節約することが立派で、使うことがだらしないという評価に結びついている。贅沢への後ろめたさは、金額よりも、”その評価”から生まれていることもある。
お金に関する信念は、子ども時代の経験や家族との関わりの中で形づくられることがある。そうした信念のパターンを捉える枠組みのひとつが、マネースクリプト。Klontzらは2011年、422人の回答をもとに、お金に関する信念のパターンを測る尺度を開発した。
ただ、育った環境から金銭感覚が決まるという証明ではないんだよ。今の収入や、これまでの経験も混ざるから。
余裕のなかった時期の節約は、生活を守る知恵だった。状況が変わっても、その感覚が”残る”のは自然なこと。今も慎重でいる必要がある人にとっては、昔の声がそのまま今の声だったりもする。
親を責める話にはしたくない。ものを大切にする目は、あの声が育ててくれた部分でもあるから。
値札の前で響くその声は、今の財布に向けて言っているのか。
昔の誰かの財布に向けて言っているのか。
贅沢と浪費はどう違うのか?

後ろめたさがあるからといって、その支出が間違いだったとは限らない。一方で、楽しみたい気持ちがあっても、家計への負担がなくなるわけではない。
感情と現実の状況を分けてみると、何を守り、どこにお金を使うかという判断も、少し変わってくる。
罪悪感と、現実的なお金の不安を分ける
後ろめたさには、少なくとも2種類ある。
ひとつは、このままだと今月の支払いが苦しくなる、という現実からの知らせ。もうひとつは、払えるのに、贅沢をした事実だけが気になる感覚。見た目はそっくりなのに、感触が違う。
たとえば、同じ日に4,000円の食事をした2人。
1人目は、店を出たあと、頭の中で月末までの引き落としを数えている。家賃、カード、来週の予定。足りるかな、と。
2人目は、必要な支払いも積み立ても済んでいて、数えるものはもう数え終わっている。それでも「こんな贅沢してよかったのかな」が、うっすら残る。
同じ「後ろめたい」でも、向き合うものが違う。
1人目は、家計を確かめて、必要なら支出を見直す。
2人目は、確かめたあとにも消えない感覚のほうを、眺めることになる。
感情だけでは、支出の良し悪しは決まらない。
後ろめたかったから買わないほうがよかった、とは言えない。かといって、買いたい気持ちが強かったから払ってよかった、とも言えない。気持ちは大事な手がかりなのに、判決まではしてくれない。
確かめることは、細かい家計管理をしなくても拾える。必要な生活費や支払いに響くか。近いうちの予定や出費に無理が出るか。余裕はあるのに、贅沢そのものが気になっているのか。この3つで、漠然とした不安に輪郭がつく。
今の残高だけでは「余裕がある」と言い切れない人もいる。収入に波があるとか、まだ見えていない出費が控えているとか。その不安は、罪悪感と呼ぶ前に、ちゃんと聞いてあげたほうがいい。
家計に無理なく楽しむための考え方
気分だけで決めようとすると、買いたい気持ちと節約したい気持ちのあいだを、行ったり来たりすることがある。
少し高いレストランに行くか、欲しかった道具を買うか。欲しい気持ちはあるけれど、金額は気になるし、買ったあとに後悔しないかも心配になる。そんなときは、まず家計への影響を確かめる。
生活費や近い予定に無理が出ないと分かれば、現実的なお金の不安と、それ以外のためらいを分けて考えやすくなる。
守るものを先に置く。
毎月の生活費と、すでに決まっている支払い。急な出費や収入の揺れに備えて残しておきたいお金。将来のために貯めたい分や、大事にしている目標。そのあとに残る分が、楽しみのための余地になる。
まず貯金して、残りで生活する、みたいな知恵もそのひとつ。
この順番は、みんな共通の決まりじゃない。
収入も、住居費も、家族の形も、先の見通しも、人によって違う。備えが厚く必要な人もいれば、そこまで要らない人もいる。何を守りたいのかは、自分で言葉にするしかない。……まぁ、それが一番むずかしいんだけどね。守りたいものが何なのか、自分でも曖昧なことは多いから。
余地があるなら、その中で楽しめばいい。
月の支払いを済ませたうえで、趣味に使う額を先に決めている人。その”枠の中”なら、迷う回数はぐっと減る。旅行の予算を取っておいたのに、予定外の出費が重なって、食事のランクを少し落とした人もいる。枠を守った結果なんだから、それもひとつの選び方。
予算の内側に収まっていても、全部買う必要はない。買えるけれど、そこまで欲しくはない。そう感じたなら、今回は見送っていい。反対に、少し高くても納得できて、生活への影響も小さいなら、避け続ける理由は薄い。
「高いからやめる」
「買えるから買う」
この二択には、自分が何を望んでいるかが入っていない。買えるかどうかと、買いたいかどうかは、別の問い。
貯蓄を大事にするのは、楽しみを我慢している状態とは違う。残すことで守られる安心にはちゃんと価値があって、そこに満足を感じる人もいる。ただ、備えをどこまで確保すれば安心できるかは、人によって違う。
必要な分を残していても不安が消えず、楽しみに使う額を決められないこともある。
支出の目的から、贅沢と浪費を考える
少し高いコーヒー豆を買った人が、2人いる。
1人は、前から気になっていた豆。袋を開けた瞬間の香りで、もう元を取った気分になって、毎朝ゆっくり淹れている。もう1人は、話題になっていたから買ってみた豆。淹れてみたら好みに合わなくて、2杯目からは飲まれないまま、棚の奥にいる。
払った金額は、ほぼ同じ。でも、支出の意味は同じではない。
違いは、”何を期待”してお金を払ったのか、実際に”何が得られたのか”にある。
前の人が正しくて、あとの人が間違いだった、という話にはしたくない。
買う前には分からないことがあるし、話題の豆がたまたま合わなかっただけとも言える。その経験で「自分は深煎りのほうが好きなんだな」と分かったなら、それも持ち帰ったものの一つだよ。
支出を考えるときに見るのは、だいたい3つ。
- 何を得たくて払うのか。
- それが自分の大事にしていることと合っているか。
- 予算や暮らしの優先事項と釣り合っているか。
使ったあとに眺め返すための目印くらいのもの。
「浪費」という言葉は、日常語として揺れている。計画のない出費に使う人もいれば、得たものが少なかった出費に使う人もいる。
誰もが同意する物差しがあるように語られるけど、実際は人ごとに少しずつ違う。高いから浪費、安いから賢い、という線は、少なくともこの言葉では引けない。
自分が満足していれば何でもいい、とも言えない。本人が望んだ出費でも、生活への負担が重すぎるなら、見直す理由になる。
逆に、暮らしに欠かせないものでなくても、生活と釣り合っていて、本人が価値を感じているなら、浪費と呼ぶには足りないのかもしれない。
「どの視点から見るか」によって変わってくる。
お金を使う価値は金額だけでは決まらない

無理なく払えると分かっても、それだけで買い物の価値まで決まるわけではない。安さは節約につながり、必要なものを選ぶことは暮らしを支える。それでも、お金を使うことで得られる満足や経験は、金額や必要性だけでは測りきれないことがある。
安さを優先すると、満足が減ることもある
ずっと気に入っていた靴がある。8,000円。値札の前で、足が止まる。
そのあと、似たデザインの靴を見つけた。3,000円。5,000円の差は大きい。いい買い物をしたな、という気分で店を出る。
しばらくして、その靴を履くたびに、最初の靴のことを思い出している自分がいる。履き心地が少し違う。形の細かいところが、頭の中の理想から半歩ずれている。悪い靴じゃない。ただ、手が伸びる回数が、じわじわ減っていく。
これを失敗と呼ぶつもりはないよ。3,000円の靴で十分に満足する人もいるし、価格差に見合うほどの違いを感じない人もいる。8,000円は無理をする金額だった、という人もいて、その場合は別の靴を選ぶのが筋の通った判断。
ここで見たいのは、安く買えたことと、求めていたものを得られたことは別だという点。
値段の差は、引き算で出る。5,000円。
はっきりしていて、比べやすい。
でも、あの靴のどこに惹かれていたのか、安いほうの靴でその好みを満たせたのかは、値段の差だけでは分からない。安く買えたという成果が見える一方で、”最初に求めていたものが満たされなかったこと”には、気づきにくい場合がある。
安いノートが書きやすくて、毎日気持ちよく使っている人もいる。安いから満足できない、という話じゃない。分かれ目は、値段より、その品物に何を期待していたかだと思う。
安く済ませることは、望みを叶えるための手段になっているのかな。それとも、安く買うこと自体が、いつの間にか目的になっているのかな。
必要ではなくても、心を満たすものがある
休日の朝、いつもより少しいい茶葉でお茶を淹れる。読みかけの本の続きを、気に入った椅子で開く。夕方、好きな曲を聴きながら、遠回りして歩く。
どれも、なくても生活は成り立つ。
でも、あるとないとでは、日々の豊かさは違う。
必要なものと、それ以外。
この分け方自体は、不自然じゃない。食べるもの、住む場所、着るもの。暮らしを保つための支出を先に確保するのは、当たり前のこと。ただ、必要かどうかはあくまで”物差しのひとつ”で、あらゆるものを測れるわけじゃない。
趣味の道具は、生活に欠かせないとは言えない。それでも、没頭する時間を支えてくれる。旅行や外食だって、毎日の暮らしには必須じゃない。それでも、人と過ごす時間や、日常から少し離れる感覚につながっている。
必要性という物差しを当てると、全部「なくても困らないもの」に分類される。でも、なくても困らないことと、自分にとって意味がないことは、同じじゃない。
「心を満たす」と言うと、なんというか抽象的でふわっと聞こえる。中身はもっと具体的で、楽しみとか、休息とか、好奇心とか、人との時間とか、そのあたり。
何で満たされるかは、人によって違う。
経験にお金を使う話は、研究でも扱われている。
Van BovenとGilovichは2003年に、物を得る目的の買い物と、経験を得る目的の買い物を比べた調査をした。経験のほうが幸せにしてくれたと答える人が多く、経験を思い浮かべたほうが気分が上がったという実験結果も出ている。
ただ、これは本人の回答にもとづく傾向。経験にお金を使えば誰でも幸せになるわけじゃないし、物がいつも劣るわけでもない。物を手に入れたことで、その先の時間や活動が増えることだってある。
安心を優先したい人もいる。
物を増やさずに暮らすこと自体が満足、という人もいる。
どれも、価値の形のひとつ。
お金を残すことと、今の豊かさを大切にすること
通帳の数字が増えていくのを見ると、ほっとする。
使わなければ残せた。そのお金で、病気にも、失業にも、急な修理にも備えられたかもしれない。貯めることが将来の自分を守る行為だというのは、本当にそのとおり。
経済的な余裕が薄い人にとっては、貯蓄がそのまま暮らしの安心につながっている。ここを軽く扱うつもりはないよ。
それでも、お金は繰り越せるのに、時間は繰り越せない。
今の体力で歩ける道。今の時期だから話せる、友人との距離感。忙しい合間に、ずっと行きたかった場所へ出かける、その年のその日。
あとになってお金が十分に貯まったとき、”同じ形”でそこにあるとは限らない。体力も、関心も、一緒に過ごせる相手も、少しずつ変わっていくから。
かといって、「お金があるうちに使おう」と背中を押す気はないよ。経験の価値は人によって違うし、全部が今すぐやるべきことでもないから。
見え方が、片方に偏っている。
残した金額は数字になる。見送った時間は、数字にならない。使った金額も数字になるのに、それで得た時間は、やっぱり数字にならない。数字のあるほうが、どうしても重たく見える。
残すことで手に入るのは、「残高」に加えて、「安心」や「選択肢」、いざというときに動ける「余裕」。
使うことで手に入るのも、「品物」や「経験」があるし、それに加えて、「楽しんだ時間」や「誰かと過ごした記憶」。
将来の備えが今日の安心になっている日もあるし、今日の経験が暮らしの満足を支えている日もある。貯めること自体に満足を感じる人もいて、それもその人の豊かさの形。
使う予定のないお金が増えていくと、何のために守っているのかが、ふと分からなくなる日がある。
豊かさを自然に受け取るための考え方

自分にとって大切なものが分かっても、楽しみを素直に受け取れるとは限らない。支出に無理がなくても、どこかに後ろめたさが残ることはある。
その感情を無理に消そうとせず、声に押されるまま決めるのでもなく、自分の状況と望みの両方を確かめながら選んでいく。
楽しむことに、いつも理由はいらない
何かを達成したわけでもない、ふつうの休日。お気に入りのカフェで、少し高いコーヒーを頼みたくなる。メニューの上でためらって、頭の中に言葉が出てくる。
「今日は特別なことをしていないのに」
欲しかった本を前にしても、似たことが起きる。読みたいから、のあとに、勉強にもなるし、と付け足す。今日じゃなくていいか、と閉じる。
理由を考えること自体は、悪い癖じゃない。ご褒美も、長く使えるからという理由も、買い物をちゃんと支えてくれる。
困るのは、理由が毎回の条件になったとき。成果のない日、役に立つと言い張れないもの、何でもない午後。そういう場所にある楽しみが、手前で止められる。
混ぜないでおきたいことが、2つある。
払えるか、自分が納得できるかを確かめるのは、お金を使うときの大事な作業。もうひとつは、努力や成果や実用性を、楽しむたびに自分へ証明する作業。前のほうは、必要なときに確かめればいい。
後ろのほうは、毎回通さなくても、世界は回る。
少し良いお茶を飲むのに、何かを達成している必要はない。読みたい本に、仕事に役立つという保証は要らない。生活に無理がなくて、自分の大事にしたいこととも合っているなら、「楽しい」だけで足りる日があっていい。
欲しくなったら全部買う、という話にはならないよ。買わずに帰って、それで満足する日もある。
楽しみたい気持ちを認めることと、買うことは、別の話。
罪悪感があっても、自分を責めない
「もっと安く済ませられたのにな」
食事の帰り道に、そんな声が聞こえてくる。楽しかったはずなのに、声はいつの間にか続きを話し始める。
「こんな使い方をするから、貯まらないんだよ」
「自分って、お金の管理が下手」
支出を振り返っていたはずが、いつの間にか自分そのものを責めている。
支出を見直すことと、自分を否定することは、分けて考えられる。
次に活かすための振り返りは、具体的。
思ったほど使わなかったから、次は買う前に使う場面を想像してみる。予算を少し越えたから、来月の配分を調整する。やることが見えていて、終われば閉じられる。
自己否定のほうは、閉じない。「お金の使い方が下手」「楽しむ資格がない」は、1回の支出を飛び越えて、自分という人の全体に判を押す。家計に響かない買い物でも、買ったという事実だけで、何度も繰り返される。
お金の問題に対する「恥の感覚」については、Gladstoneらが2021年に発表した研究がある。
家計が厳しい状況での恥は、お金の問題から距離を置く行動を強めて、状況をかえって悪くする循環をつくる。しかも、罪悪感より恥のほうが、その傾向が強かったという。贅沢への罪悪感を調べたものではないけれど、責めるほど見直しから遠のく感じは、日常でもよく分かる。
罪悪感が出たこと自体は、その支出が間違いだった証拠にならない。確かめることがあるなら、金額や予算を見ればいい。確かめても問題が見つからないのに残る罪悪感は、責め続けて消そうとしなくていい。かといって、持ってはいけない感情でもない。
残ったまま、次の日の判断をすることだってできる。
自分が納得できるお金の使い方を見つける
旅行が好きな人は、毎月少しずつ旅費を積み立てて、時期が来たら迷わず使う。
本が好きな人は、本には気持ちよく払って、流行りの小物には財布を開かない。
家で過ごす時間が好きな人は、物を増やさず、必要なものだけで満たされている。
3人とも、お金の使い方が違う。どれが豊かな暮らしなのかを決める必要は、なさそう。得たいものも、残すことで感じる安心も、人によって形が違うから。
納得の目安は、ここまで見てきたものの組み合わせ。
生活に無理が出ないか。何を得たくて払うのか、それは自分の大事にしたいことにつながっているか。使うのと残すのと、今の自分はどちらに納得できるか。ためらいの正体は、具体的な不安なのか、贅沢そのものへの後ろめたさなのか。
これは、買う理由を集める作業じゃない。楽しむための証明とは別物で、自分の暮らしと折り合うかを確かめるだけ。楽しいから払う。その手前で、払える形かを見る。順番は、そうなっている。
基準を持つと、買うものが増えるとは限らない。気兼ねなく楽しめるものが見つかる人もいれば、関心のないものをきっぱり断れるようになる人もいる。
将来の出費が控える時期は、楽しみの支出を絞って、落ち着いたら使う。余裕があっても、欲しくないものは買わない。買うにも買わないにも、自分の理由がある。それだけで、迷いの質が変わる。
状況が変われば、大事にしたいものも動くし、同じ買い物の受け止め方も変わる。基準は、見直す前提で持っておけばいい。
それでも、迷う日は来る。
楽しみたい気持ちも、残しておきたい気持ちも、どちらも本物のまま並んでいたりするから。
贅沢を楽しむことに、罪悪感だけで答えを出さない

豊かさを受け取るとは、何でも欲しいままに手に入れることではなく、自分にとって価値のある満足を、必要以上の罪悪感によって拒まないこと。
数日たって、あの夜のことをふと思い出す。スープの味が先に浮かぶ日もあれば、会計の数字が戻ってくる日もある。
使ったお金を惜しく感じることと、その時間を楽しめたことは、必ずしも矛盾しない。もう少し安く済ませられたかもしれない。それでも、あの食事がおいしかったことまで、なかったことになるわけではない。
金額を確かめれば、いくら使ったかはわかる。でも、その時間にどれだけ満たされたかまでは、数字だけでは決められない。
もちろん、支出を振り返ることも大切だよ。家計に無理があったなら、次の機会に使い方を考えればいい。ただ、無理のない範囲で楽しんだことまで、罪悪感によって否定する必要はない。
レシートには、店の名前と金額が並んでいる。
そこには、スープのおいしさも、食事を終えたときの満足も書かれていない。
何にお金を使い、何が自分に残ったのか。その両方を見てみると、贅沢に対する気持ちも、少し変わってくるのかもしれない。
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