「時間を使う」「時間を無駄にする」。
何気なく口にするその言葉に、時間を資源のように扱う感覚が、少しだけ滲んでいる。
何もしていない時間。後から「何してたの」と聞かれても、うまく言葉が出てこない。別に悪いことをしたわけじゃない。それでも、どこかに小さな引っかかりが残る。
役に立った時間だけが、ちゃんと過ごした時間なのだろうか。
湯が沸くまでの数分間、台所に佇んでいる。
「無駄な時間」に罪悪感を覚える理由

不思議なものだよね。仕事や勉強をしている間は、時間の価値なんてほとんど気にしない。なのに、休日になった途端、急にそれが気になり始める。
何もしていない数十分。特に成果もない散歩。眺めていただけの窓の外。こういう時間ほど、後になって「あれで良かったのかな」と自分に問い直したくなる。
たぶん、これは時間の使い方の問題じゃないんだよね。
説明できる意味があるかどうか。
そこが引っかかりの正体なんじゃないかな。「これは休息だった」「これは気分転換だった」と誰かに言える時間は、なんとなく許される。でも、説明の言葉が見つからない時間ほど、自分の中でも”価値が薄かった”ように感じてしまう。
説明できないから、無駄だったことになる。
……そんな理屈、いつ誰から教わったんだろう。
「無駄にも意味がある」では消えないもの

こういう罪悪感に対して、よく聞く慰めがある。
無駄な時間にも、実は意味があるんだよ、と。休息になる。気分転換になる。創造性が高まる、なんて言われることもある。
分かるよ。実際そうやって救われる場面もあるんだろうし、否定するつもりはない。効果があること自体は、たぶん間違ってはいないんだと思う。
ただね、それで本当に楽になるかというと、少し違う気がしている。
「この時間には休息という効果がある」と説明できた瞬間、それはもう”無駄な時間そのもの”として受け取られているわけじゃない。役に立つ理由が見つかったから、初めて許されている。
結局のところ、役に立つなら価値がある、という基準そのものは、そのまま残ってしまうんだよね。
無駄を無駄のまま置いてはいない。名前を変えて、有益なものの列に並べ直しているだけ。
だから、いくら「意味がある」と言われても、どこかで消えない引っかかりがある。それは、この説明のやり方自体が、まだ一段浅いところで止まっているからなんだと思う。
時間を「役に立つか」で測ってしまう

じゃあ、そもそもどうして、時間はいつも「役に立つかどうか」で測られるんだろう。
仕事の場では、それなりに理由がある。時間を成果につなげて考えるのは、そこでは自然な発想だから。
問題は、その考え方が仕事の外にまで、いつの間にか染み出してくること。休日にも、趣味にも、誰かとの何気ない会話にまでね。
気づけば、目的のない時間そのものが落ち着かなくなっている。何かのためでなければ、そこにいる理由がないような感覚。
常に「何か目的を達成するための行動」じゃないといけない感じ。
説明できない時間に、いつも小さな引っかかりを覚えるのは、たぶんここに理由がある。
「時間を使う」
「時間を無駄にする」
普段よく口にするこの言葉にも、時間を限られた資源みたいに扱う感覚が、ちょっと滲んでいる気がする。深く掘るほどのことじゃないけれど、少なくとも、そういう言葉の癖の中で私たちは生きているんだよね。
仕事なら成果物が残る。写真や記録として残るものもある。だから、何も残らなかった時間だけが、なんとなく薄く見えてしまう。
でも、記録に残らないことと、その時間がなかったことは、同じじゃないはずだよ。
目的のあとに残る時間
抽象的な話ばかりだと、実感が遠くなるね。もう少し、日常の場面まで下りてみようか。
やかんの湯が沸くまでの数分。スマホを見ることもできるのに、なぜか何もせず、ただ湯の音を聞いていることがある。
電話の用件はもう終わっている。それでも「じゃあまた」とすぐには切らず、どうでもいい話が少し続く。
会議が終わった直後の数十秒。画面はまだ開いたまま、次の予定に移る前に、少しだけ座っている。
こういう時間には、共通点がある。目的はもう終わっているのに、時間だけがまだそこに残っている。
目的が終わったら、すぐ次の目的で埋めなきゃいけない気がするけど、本当にそうなのかな。
目的がないことと、意味がないことは、同じじゃない。むしろ、目的の外にあるからこそ、そこにしかない質感があるんじゃないかと思う。
わざわざ「無駄な時間を作ろう」とする前に、こういう時間はもう、生活の中にちゃんとある。
「無駄」と「浪費」は行為だけでは分けられない
ここまで来ると、次に出てくる疑問はだいたい決まっている。じゃあ、何をしてもいいの、って。
でも、それも少し違う。
疲れて帰った日、何も考えずに動画を眺める時間が、”心地よく感じられる”ことがある。一方で、気づけば一時間経っていて、何を見ていたのかほとんど覚えていない日もある。
外から見れば、どちらも「動画を見ていた時間」。同じ行為だよ。
それでも、自分の中に残る感覚は違う。少し休めた気がする日と、また時間を溶かしてしまったと感じる日。
つまり、”行為の種類”だけでは決まらない。「スマホ=浪費」「散歩=無駄を楽しんでいる」なんて分け方は、実際の感覚からずいぶん離れているんだよね。
終わったあと軽くなったか、消耗しているか。途中で自分の意思がまだ残っていたか。こういうことは、確かに手がかりになる。
ただ、これを判定基準にはしたくない。疲れている日は、休んだはずの時間ですら重く感じることがあるし、逆に、惰性で続けていた時間の中にも、ふっと気持ちが軽くなる瞬間が混ざることもある。
だから、線を引いて分類するより、その時間を自分がどう過ごしていたか、そのつど確かめるくらいでいいんだと思う。
「選んだ時間」なら何でもいいわけではない
ここは、はっきりさせておきたい。
「自分で選んだ時間だから」という理屈は、”便利すぎる”んだよね。この理屈をそのまま使えば、消耗するだけの行為も、後悔しながら繰り返している行為も、全部「自分が選んだのだから良い」で済ませられてしまう。
でも、それは無駄を肯定することとは、少し違う話だよ。
無駄だから悪い、という考え方の反対側に、無駄だからこそ素晴らしい、という新しい正しさを置く必要もない。
無駄かどうかを外から決めることより、自分がその時間をどう経験していたか。見るべきはそこだけだよ。
無駄な時間を許すのと、自分をそのまま放置するのは、別のことだからね。ここだけは、緩めずに置いておく。
役に立たなくても、その時間を過ごしていい

「この時間は休息になるから大切」
「この時間があるから、また頑張れる」
そう説明できるなら、それはそれでいいんだよ。
けれど、その説明を、無駄な時間を許すための”条件”にしなくてもいい。
何かを生み出さなくても。成長につながらなくても。
役に立つ理由がなくても、その時間はもう、ちゃんと過ぎている。
湯が沸くまでの数分。電話の切り際に残った、どうでもいい会話。
あの時間は、別に何かの役に立たなくても、良かったのかもしれない。
そう思えたら、それでいいんだと思う。
人生、効率がすべてじゃない。
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