哲学は、何の役に立つのだろう。
使えばすぐ結果が出るわけでもない。何千年も考えてきたのに、自由や正義や幸福について、人はいまだに考え続けている。
それでも、なくならなかった。
人は、線を引きながら暮らしている。
ここから大人。ここから死。ここまでは許される。ここから先は任せられない。
制度にも倫理にも、境目がある。
線があると扱いやすい。でも、なぜそこに線を引くのか。その理由まで、最初から決まっているわけではない。
答えを探すとき、人は意外と足もとを見ない。
使い慣れた言葉の意味を問い直す。「そういうもの」として飲み込まず、どこまで言えるのかを確かめていく。
答えが出ないから残っているのか。それとも、答えとは別の何かを、人はずっと求めているのか。
哲学というのは、やっぱり不思議な学問だ。
哲学の存在意義とは?

何かを考えるとき、私たちはすでにいくつもの言葉や基準を使っている。
正しい、幸せ、知っている、役に立つ。
答えを探すことはあっても、それらを何の意味で使っているのかまで戻ることは少ない。哲学には、その手前まで問いにできるところがある。
存在意義、なんて、ずいぶん大きな言葉だよね。ただ、私たちは何かの意味を量るとき、つい「役に立つかどうか」の一本の物差しで済ませてしまう。その物差しを、いったん脇に置いてみる。
先に、答えを置いておくよ。
哲学の存在意義の一つは、何かを考えるときに使っている言葉や前提、判断の基準、物事の境目まで、「問いに戻せる」ことにある。
答えを支えているものまで、いったん表に出して確かめられる。
私はそこを見ている。
たとえば、幸せになる方法なら、調べればいくらでも出てくる。
旅行、人との時間、貯金、趣味。けれど「幸せって、自分にとってそもそも何だろう」と聞かれた途端に、手が止まる。方法の話をしているつもりで、目指す先の輪郭が曖昧なまま走っていた、ということは案外多い。
その手が止まる場所を、ごまかさずに見つめ直す。哲学が引き受けているのは、そういう場所だよ。
哲学を学ぶと考える力が鍛えられる、という話もよく聞くよね。そういう効果が出ることはあるのかもしれない。
ただ、それは哲学に触れた人に起こり得る結果の話。哲学という営みがなぜ今も続いているのかは、別の場所から眺めないと見えてこない。私が見ているのは、そちらのほう。
もちろん、哲学の目的は一つに揃っているわけじゃない。真理を追う人もいれば、善や正義を考える人もいるし、言葉の使われ方を丹念に調べる人もいる。だから「これだけ」とは言わないよ。ただ、どの分野を歩いていても、足場のほうへ視線が戻る瞬間は、あちこちで顔を出す。そこに目を留めているだけ。
答えが決まらないものを考えて、何になるのか。そんな引っかかりは、そのまま持っていていい。今はまだ、足場を問い直すと言われても、輪郭はぼんやりしているはずだから。
哲学は「そもそも」から考える

問いを受け取ると、頭はすぐ答えのほうへ向かう。でも、その問いが何を前提にしているのかで、出てくる答えはずいぶん変わる。
「どうすればいい?」と考える前に、「そもそも何を求めているんだろう」と戻る。
哲学では、そんな”一段手前”も考える場所になる。
「どうすれば?」から「何なのか?」へ戻る
旅行に行けば幸せになれるのかな。人と会う時間を増やす? お金があればいいのか?
こういう問いは方法の話として進むから、気持ちよく進む。ただ、その途中で、使っている「幸せ」の中身が揺れていることがある。人によって、いや、なんなら同じ人でも日によって。
楽しい気分のことを幸せと呼ぶなら、答えは刺激と楽しい予定を増やす方向へ向かう。苦しさが少ない状態を幸せと呼ぶなら、むしろ予定を減らして静かにするほうへ向かう。しんどくても続ける価値を感じられる日々を幸せと呼ぶなら、また別のところに答えがある。
同じ「幸せになる方法」という問いなのに、答えが正反対になることもあるんだよ。
方法を探す前に、その言葉が自分の中で「何を指しているのか」。そこへ一度戻る。
何にでも戻るわけじゃない。今日の夕食を決めるのに、食事とは何かまで遡る人はいないでしょ。戻る意味が出てくるのは、使っている言葉の中身で答えががらりと変わる問いのとき。
幸せ、正しさ、人間らしさ。
そういう言葉が混ざった問いは、だいたいそういう顔をしているから。
定義や基準そのものを問う
戻った先で見つかるものを、もう少し細かく分けてみるね。
一つは定義。それは何なのか、という問い。
もう一つは基準。何をもって、そうだと判断するのか、という問い。
似ているけれど、同じ作業じゃない。
友人、で考えてみようか。
「友人とは何か」と聞かれたら、気の合う人とか、信頼できる人とか、言葉を探すことになる。でも「どこから友人と呼ぶのか」と聞かれると、話が変わる。何回会えば。何を話せば。連絡が途切れても、友人のままなのか。
ここで探しているのは、どこで線を引くのか、その”判断に使う基準”のほう。
仮に、友人を「連絡を取り合っている相手」と定めてみる。すっきりして聞こえる。でも当てはめると、すぐにこぼれる。遠くへ引っ越して年に一度しか話さなくなった大切な人が外れて、仕事で毎日やり取りするだけの人が入ってしまう。
直すなら、連絡の頻度のかわりに、「その人のことが気にかかるかどうか」を条件にしてみる手がある。すると今度は、気にかかるだけで一度も話したことのない有名人まで入りかねない。
……どこまで行っても、きれいには収まらないんだよね。それでも、直すたびに、前の定義が何を取りこぼしていたのかは見えてくる。現代の哲学には、既存の言葉を分析するだけでなく、その言葉を”もっと使いやすい形に作り直せないか”を考える研究もあるよ。
問いの側にも、書かれていない基準は紛れ込む。
「あの人はどうして成功したんだろう」と考えるとき、”成功”が何を指すのかは、たいてい決まったことのように置かれている。収入なのか、地位なのか、続けてこられたことなのか。答えを探しているつもりで、先に物差しだけが決まっている。
物差しは、使っているあいだは見えない。そのくせ、結果にはいちばん効いている。
なぜそこに境界を引くのか
生きている、死んでいる。
知っている、知らない。
許される、許されない。
私たちの判断は、こういう「線」の上に組み立てられていることが多い。線がなければ、制度も約束も、扱いようがないからね。
線そのものは悪者じゃない。ただ、線がそこにあることと、線をそこに引く理由があることは、別の話。
曖昧な境目に対して、どこで線を引けばいいのかを考える。あるいは、そもそも一本の線を引けるのかを問い直す。これも、哲学が扱ってきた問題の一つなんだよ。
境界が曖昧だからといって、何も決めなくていいわけではない。制度や判断には、どこかで区切りが必要になることもある。だからこそ、その線が何を根拠に引かれているのかまで考える意味が出てくる。
何歳から大人として扱うのか。
日本では2022年4月に、成年年齢が20歳から18歳へ引き下げられた。昨日までの線が、今日から2歳分動いたことになる。人の成熟が一夜で早まったわけじゃないのにね。線を動かすときには、必ず誰かが理由を持ち出す。
もちろん、条件を定めれば、数値ではっきり区切れるものもある。でも判断や制度に使う線は、見えている違いのうち、何を重要な差として扱うのかを選んだ結果として置かれることも多い。
どこに線があるのか、という問いのほかに、なぜその差を大事にするのか、という問いが残る。
線は便利で、引かれた瞬間から、もとからそこにあったような顔をしはじめる。
事実が分かっても、問いは終わらない

分からなかったことが分かれば、問題は解決するように思える。でも、事実が明らかになったあとに、「では、それをどう扱うのか」という問いが残ることがある。
何が起きているかを知ることと、どこに線を引き、どう判断するかは、同じことではない。
「分かること」と「どう判断するか」は別
脳死を例にしてみるよ。
脳がどういう状態にあるのか。どの働きが、どこまで失われているのか。回復の見込みはあるのか。ここまでは調べられる。医学が進むほど、細かく、正確に。
ところが、調べた先にもう一つ問いが立つ。
その状態を、人の死とみなすのか。
これは、測定の続きだけでは決まらない。
何を人の死と考え、どの状態をその基準にするのかという話になる。心臓が止まることを死と見てきた長い習慣。身体がまだ温かく、動いている姿。人が生きているとはどういうことか、という見方。
いろいろなものが、そこに乗ってくる。
生命倫理の議論では、ここをいくつかの層に分けて考えることがあるよ。人の死とは何かという考え方。どの状態を死とするかという基準。その基準を満たしているかを確かめる診断の手順。似ているようで、三つとも別の仕事なんだよね。
診断の手順は、技術が進めば精度を高められる。でも、精度が上がったからといって、それだけで基準まで自動的に決まるわけではない。より正確に状態が分かるようになっても、なぜその状態を死とみなすのかという理由は、別に考える必要がある。
より正確に測れるようになったからといって、なぜその状態を死と呼ぶのか、という理由までは出てこない。そこは、測る道具の持ち場じゃないから。
1968年に、いまの脳死の基準につながる提案をしたハーバード大学の委員会には、医師のほかに、神学者や法学者、科学史家も加わっていた。医学の問題として始まったのに、医学の中だけでは閉じなかった、ということだね。医療、法律、社会の仕組み、人間をどう見るか。
脳死は、いくつもの領域が重なる場所にある。
日本でも議論が続き、1997年に成立した臓器移植法では、臓器移植に関する脳死判定や「脳死した者の身体」の扱いが定められた。
哲学者が決める、という話じゃないよ。決めるのはもっと大きなところで、医師も法律家も、当事者である私たちも入っている。その中で、基準や言葉の使い方、理由の筋道を丁寧にほどく役目を、哲学が受け持つことがある。
事実が分かれば答えが出る。そう思っていた場所に、事実とは別の層が、ちゃんと座っている。
「できること」が増えると、新しい問いが生まれる
AIが、人間より高い精度で何かを見分けられるようになったとする。画像の診断でも、書類の審査でも。
ここまでは精度という事実の話。けれど、すぐ次の問いが出てくる。精度が高いなら、最後の判断までAIに任せていいのか。
任せていいか、を考え始めると、目に入るものが変わってる。
間違えたとき、誰が責任を負うのか。なぜその判断になったのか、説明できなくてもいいのか。人が判断すること自体に、意味はあるのか。精度の数字は、どれにも答えてくれない。
こうした「何をしてよいのか」「誰が責任を負うのか」という問いは、哲学の一分野である倫理学とも重なる。倫理学は、単に善悪を言い渡すためのものではない。何をすべきなのか、その判断をどんな理由で支えられるのかも考えていく。
技術によって選べるものが増えるほど、「できるか」だけでは足りず、「なぜそれを選ぶのか」まで問われる場面が出てくる。
責任については、2004年に研究者のアンドレアス・マティアスがはっきり書いている。
学習するシステムでは、設計者や運用者でさえ、その振る舞いを十分に予測したり制御したりできない場合がある。すると、そこで起きたことの責任を、従来と同じ考え方で誰か一人に帰せるのか、という問題が出てくる。
マティアスは、こうした状況を「責任の空白」という問題として論じた。ただ、この捉え方には反論もあり、AIの責任をどう考えるべきかは今も議論が続いている。
これを責任の空白と呼んだ。ただ、この見方には、問題を大きく見すぎているという反論もあって、決着はしていないよ。
AIは新しい話題に見えるけれど、問いの形はどこか馴染みがある。
できることが増えると、してよいことの”線”が、新しく必要になる。
任せることができなかった時代に、どこまで任せるかで悩む人はいなかったわけだからね。選べなかったものが選べるようになって、初めて、問う必要が生まれる。
科学が進めば哲学の出番が増える、とまでは言わない。進歩のおかげで、解けてしまう問いもあるはずだから。言えるのは、できることが増えたその先に、新しい問いが姿を見せることがある、というくらい。
科学と哲学は対立するものではない
ここまで来ると、科学が事実を受け持って、哲学が価値を受け持つ、と分けたくなるかもしれない。ただ、その分け方は、少し都合がよすぎるかな。
科学の中にも、判断はたくさん入っている。どれくらい証拠が揃えば十分とするのか。何を客観的と呼ぶのか。どの程度のリスクなら受け入れるのか。どの研究から進めるのか。こうした点を調べているのが、科学哲学と呼ばれる分野。
哲学のほうも、頭の中だけで進めているわけじゃない。自由や、知っているという言葉を、人が実際にどう使い、どう判断するのかを、心理学の方法で調べる実験哲学という流れもある。認知科学や神経科学の知見を、議論の材料にすることもあるよ。
科学と哲学は役割が同じではない。でも、完全に切り離されているわけでもない。
事実を明らかにすることと、その事実をどんな言葉や基準で受け止めるのかを考えることは、ときどき同じ問題の中で重なっている。

答えが出ない哲学に意味はある?

長く考えても意見が割れたままなら、何も進んでいないようにも見える。ただ、答えが一つに決まることだけが、理解の前進とは限らない。
「この説明では足りない」「ここで意見が分かれている」と分かるだけでも、問いの輪郭は以前よりはっきりしていく。
合意がないことと、進歩がないことは違う
自由意志という問いがある。
人の行動が、それ以前の出来事の積み重ねで決まっているのだとしたら、それでも自由と呼べるものは残るのか。
2020年のPhilPapers Surveyでは、英語で活動する哲学者1785人を対象に、100の哲学的な問いについて立場を尋ねている。
自由意志について回答した人のうち、決定論が正しくても自由は成り立つと考える両立論を受け入れる、またはそれに傾く人は59.16%だった。ほかにも、決定論とは両立しない形で自由意志を認める立場や、自由意志そのものを認めない立場などに支持が分かれている。
もちろん、この調査だけで世界中の哲学者を代表しているとは言えない。それでも、専門家のあいだでも、一つの答えにまとまっていない問いがあることは見えてくる。
割れているから、人それぞれ、で済む話かというと、そうでもない。6割と残りの人たちは、それぞれ違う理由を挙げて、お互いの理由に反論している。理由の強さを比べる余地は、割れたままでも残っている。
デイヴィッド・チャーマーズという哲学者は、哲学には科学のような大きな合意が少ないと、まずはっきり認めている。そのうえで、進歩を一つに絞らず、いくつかに分けて見ている。
- 問題の理解が深まること。
- 賛成と反対の理由が明確になること。
- 新しい立場が現れること。
- 方法が改善されること。
- 小さな論点で合意が進むこと。
みんなが同じ答えに頷く、という一点だけで測れば、哲学は動いていないように見える。けれど自由意志の問いも、昔は何を問題にしているのかさえ曖昧だったものが、決定論と両立するのか、そもそも自由とは何を指すのか、と論点が整えられてきた。そう眺めることもできる。
進歩を何で測るのか。その基準を一つに決めてしまうと、見えなくなるものが出てくる。
これは、哲学が十分に進んでいるという評価までを固めたい話じゃなくて、進み方には複数の形があり得るんじゃないか、という見え方の話。
「この答えでは足りない」と分かることも前進
時計を見て、3時だと思った。理由は十分にある。時計は普段、正確だから。そして実際、いまは3時だった。
ところがその時計は、半日前から止まっていた。たまたま針の指す時刻と、現実の時刻が重なっただけ。
さて、この人は3時だと「知っていた」と言えるのかな。信じていて、それは真で、信じる理由もある。条件は揃っているのに、知っていたと言うには、どこか落ち着かない。
こういう型の例を、1963年にエドマンド・ゲティアという哲学者が、わずか3ページほどの論文で示した。20世紀の認識論では、知識を「正当化された真なる信念」として捉える分析が、重要な出発点の一つになっていた。
ゲティアの例は、その三つが揃っていても、偶然に真実へ当たっただけの場合があると、はっきりした形で突きつけた。
そのあと、多くの哲学者が条件を足したり、別の定義を試したりしてきた。でも、誰もが納得する知識の定義には、いまも至っていない。
だったら無駄だったのか。私はそうは見ない。
迷路で、出口にはまだ着いていなくても、この道は行き止まりだった、と分かれば、探索は前に進んでいる。知識について、理由があって真であれば足りる、という説明では足りない。その印がつくだけで、考える場所はずいぶん絞られる。
「知っている」という言葉は、毎日のように使っているよね。使い慣れた言葉の真ん中に、実は定義しきれない部分が残っていた。そのことが分かったのも、答えが出ていないからこそ見えている風景なんだよ。
完全な答えがなくても、判断は必要になる
哲学的な決着がつくまで待つ、というわけにはいかない場面がある。
脳死のこと。AIに何を任せるか。胚の研究をどこまで認めるか。どれも、待っているあいだにも現実が進む。誰かが、どこかで決めなければならない。
胚の研究には、14日という線がある。1984年にイギリスのウォーノック委員会(委員長は哲学者のメアリー・ウォーノック)が報告書を出して、受精から14日を超えて胚を培養することを認めない、という線を示した。その後、いくつもの国でこの考え方が制度になっていった。委員会の内部にも、反対の声はあったよ。
それから40年近くが過ぎて、技術が進み、14日を超えて培養できる可能性が見えてきた。
2021年、国際幹細胞学会(ISSCR)はガイドラインを改定した。14日を超える胚研究についても、社会的な支持があり、その地域の法律や政策が許す場合には、専門的な科学・倫理審査のもとで検討し得るという方向へ変わった。
単純に「14日の線をなくした」という話ではない。技術や知識が変わったことで、その線をどんな理由で維持し、あるいは見直すのかを、もう一度検討する余地が生まれたということなんだよ。
ここで起きているのは、完全な答えを見つけたから決める、でも、答えが出ないから決めない、でもない。いまある理由を並べて、反対の声も聞いて、リスクを見積もって、何を優先するかを選ぶ。
そして、状況が変わったら、見直す。
答えが決まりきらないことと、何を選んでもいいことは、別の話だよ。理由の強さ、反例への耐え方、他の判断との筋の通り方、人への影響。
比べられるものは、まだたくさん残っているから。
哲学的に考えるというのは、決められないまま考え続けることだけじゃない。何を重く見て、何を後回しにして、どの条件が変われば見直すのか。そこまで見えた状態で、一度、線を引くことにもつながっている。
哲学は何の役に立つ?

役に立つかどうかは、それだけでは決まらない。何のために使うのかが変われば、同じものでも価値は変わる。「哲学は役に立つ?」という問いにも、まだ言葉にされていない目的や基準がある。
だから、”この問い自身”も少し立ち止まって眺められる。
「役に立つ」には「何のために?」がある
包丁は、料理をするなら頼もしい。でも、雨をしのぎたいときには、ほとんど役に立たない。包丁が変わったわけじゃなくて、したいことが変わっただけ。
役に立つ、という言葉は、一人では立っていられない。必ず、何かのため、という相手を連れている。
哲学は役に立つのか、と聞かれたとき、その何かのためが、案外はっきりしていない。仕事をすぐ片づけたいのか。社会のルールを考えたいのか。迷ったときの判断を支えたいのか。使っている言葉の意味を、自分で確かめたいのか。世界のことを、ただ知りたいのか。
すぐに収入を増やしたい人にとっては、哲学の答えは、ほぼ「ならない」になる。ルールの理由を考える人にとっては、かなり違う答えになる。同じ問いなのに、どこを向いて聞いているかで、返ってくるものがばらばらなんだよ。
だから、まず「何のために役立てたいのか」を確かめる。そうすると、役に立つかどうかという質問が、もう一段、細かい質問に変わる。
そして、この動きは、さっきから私たちがしていた動きと同じ。答えを出す前に、その問いが使っている言葉の中身へ戻る。「役に立つ」という、毎日使っている言葉を相手にして。
哲学は判断の理由を見えるようにする
では、判断を考える場面なら、哲学は何をするのか。
脳死のことを思い出してみて。「この状態を死とする」という結論だけを受け取ることもできる。ただ、その結論の下には、”理由がいくつも入っている”。
どの働きを重く見ているのか。なぜ、その働きが失われたところを境目にするのか。人が生きているとは、どういうことだと考えているのか。別の線の引き方はなかったのか。
AIに任せるかどうかも、同じ。任せる、任せない、という結論の下には、精度を重く見ているのか、責任の所在を重く見ているのか、人が自分で決めること自体に価値を置いているのか、という違いが潜んでいる。
私はここに、哲学の大事な働きがあると見ている。ただし、これは哲学の世界で定まった定義じゃなくて、これまで見てきた例を重ねて浮かんできた、私の見方だよ。
哲学が、正しい答えを保証するわけじゃない。哲学者が考えれば必ず正解になる、なんてこともない。哲学がしているのは、判断を支えている理由を、表に出すこと。なんとなくそう感じる、という場所から、私はこういう理由でこう考える、という場所へ、判断を移すこと。
理由が見えるようになると、いくつかのことが起こる。
一つは、反論を受け取れること。理由が見えない判断には、反論の仕様がない。ここが違うのでは、と指をさせる場所が、理由の側にできる。
もう一つは、見直せること。状況が変わったとき、何が変わったから見直すのか、がはっきりする。
さっきの14日ルールの見直しでも、その線を支えてきた科学的・倫理的な理由を、変化した条件の中でもう一度検討することになった。
結論だけを見るのではなく、何を理由にその線を置いたのかまで残っていれば、条件が変わったときにも、どこを考え直せばいいのかが見えてくる。
それから、どこで意見が割れているのかが分かる。同じ結論を出している人たちが、実は違う理由で頷いている。反対している二人が、実は同じ理由を共有していて、見ている事実だけが違う。
そういうことも、理由が出てきて初めて見える。
社会の判断が、そのたびに、決めたあとで考え直せる状態に置かれているか。派手ではないけれど、地味に、あとで効いてくるところだと思う。
役に立つものだけが価値を持つのか
ここまでで、哲学が役に立つ場面は、いくつか見えたと思う。そのうえで、少しだけ戻りたいところがある。
役に立つことを示せたら、哲学の価値は認められる。
……本当に、そうなのかな。
そう考えるとき、私たちは、価値があるものは役に立つはずだ、という前提を、受け入れている。その前提は、どこから来たんだろう。
星空について知る。昔の人の暮らしを調べる。一枚の絵の前で、長いこと立っている。そのどれも、何かの足しになるかもしれないけれど、足しになるから見ているとは限らない。
知りたいから知る。分かりたいから考える。
それだけで、十分に価値を感じることがある。
古代ギリシャのアリストテレスは、『形而上学』の冒頭で、人は本性として知ることを求める、と書いた。哲学は驚きから始まったとも言う。そして、生きるのに必要な技術がひと通り整ったあとの、余裕のある場所で生まれた学問として、知ること自体を目的にするものを位置づけている。
人間の本質が科学的にそうだと確かめられた、という話じゃない。哲学の長い歴史の中に、知ることそのものに価値を置く立場があった、ということ。
哲学が役に立たないといわれる話も、ずいぶん昔からある。
古代ギリシャの哲学者タレスには、星を眺めながら歩いて穴に落ちたという逸話がある一方で、天候を予測してオリーブの搾り機を先に押さえ、利益を得たという別の逸話も残っている。
哲学者は現実を見ていない、と笑われる話と、必要なら利益も出せる、と返すような話。どちらも史実かどうかは、はっきりしない。
面白いのは、哲学が役に立つのかという疑いそのものが、少なくとも古代から繰り返されてきたことなんだよね。

哲学の存在意義をどう捉えるか

私たちは毎日のように、これは正しい、これは知っている、ここまでは許される、と判断している。ひとつひとつ立ち止まって理由を確かめていたら暮らしていけないから、ある程度は「そういうもの」として受け取って進んでいく。
でも、いったん決まったものは、決まった理由まで見えなくなりやすい。最初は何かを根拠に引かれた線でも、長く使われているうちに、もともとそこに線があったように感じられてくる。
哲学が問いを置くのは、そんなときでもあるんだと思う。
なぜ、この言葉をこういう意味で使っているのか。
なぜ、この状態を境目にしたのか。
なぜ、この理由をほかの理由より重く見たのか。
すでに出ている答えを壊すためではなく、その答えが何によって支えられているのかを、もう一度確かめてみる。
確かめてみた結果、今までの答えでよかったと思うこともある。条件が変わったなら、少し直したほうがいいと気づくこともある。答えを持つことと、その答えを考え直せることは、両立するんだよね。
哲学には、真理を追うものもあれば、正義や知識、自由、人間について考えるものもある。ひとつの目的だけでまとめることはできない。それでも、何を考えるかだけでなく、何をもとにそう考えているのかまで問いにできることには、哲学の存在意義の一つがあるように思う。
答えがすぐには決まらないから、頼りなく見えることもある。でも、自動では決まらないところには、どんな理由で決めるのかを考える余地が残っている。
正しい。
知っている。
自由。
幸福。
役に立つ。
使い慣れた言葉ほど、何を基準にそう呼んでいるのかは普段あまり考えない。哲学が問いを置く場所は、案外そういうところに残っている。
【こちらの記事も読まれています】








コメント