PR

常識とは何か?私たちが共有する見えない前提

全ての記事

海外へ行くと、自分の常識が崩れる。

転職すると、また崩れる。

結婚して一緒に暮らし始めると、さらに崩れる。

普段は気にも留めていなかったことが、急に通じなくなる。誰も決めていないのに、破ると裁かれる。明文化されていないのに、法律より強く人を縛ることがある。

それでも私たちは、ときどきそれを真理みたいに扱う。

常識って、そもそも何なんだろう。

法律なら確認できる。ルールなら読み返せる。でも常識は、どこにも書かれていない。

それなのに、破った瞬間だけ急に姿を現す。

触れようとすると輪郭がぼやけるのに、誰かを責める時だけ妙にはっきりしている。

なぜ「常識」という言葉にモヤモヤするのか

常識について考えはじめると、最初に戸惑うのは「どこへこの気持ちを向ければいいのかわからない」という感覚かもしれない。相手に思っているのか、自分に落胆しているのか、それとも何かもっと大きくて名前のない何かに対してなのか。

その輪郭が、どうもぼんやりしている。

気持ちの出所が曖昧なのは、衝突している場所が少しずれているからなのだろう。

同じ目的でもすれ違う瞬間

たとえば、こういうことがある。

上司はメールに早く返すことを求める。受信してから数分以内に一次返信を入れるのが、自分にとっての仕事のリズムであり、”最低ライン”だという感覚がある。

対して、相手は違う。

内容を読んで、整理して、意味のある答えを出してから送る。それが誠実な仕事だという感覚がある。

チャットツールに置き換えても同じことが起きる。既読がついているのになぜすぐ返さないのか、と感じる人がいる一方で、考えてから返すのが当然だと思っている人がいる。スタンプだけの返信を「軽い」と受け取る人と、手軽に反応できて便利だと感じる人が、同じチームにいたりする。

どちらも、仕事を良くしたいという気持ちは同じだよね。

でも実際には「なぜすぐ返さないのか」「なぜ内容より速さを優先するのか」という衝突が起きる。そしてある時点から、仕事の話ではなくなってくる。態度が悪い、やる気がない、社会人として基本が分かっていない。……そういう話になっていく。

奇妙だよね。お互い良かれと思っているはずなのに、気づけば相手の人間性の話になっている。争っているのは目標じゃなくて、そこへの辿り方なんだけど、”その違いがどこからくるのか”は、誰も説明しない。

「自分の普通」が通じない時の戸惑い

「普通そうするよね」と言われた時の、あの感覚。

反論の言葉が出てこない。でも、黙って従うのも何か違う。自分が非常識なのかもしれないという感覚と、言い方がどこかおかしいという感覚が、同時にある。どちらとも言い切れないまま、何となく後味が悪い…。

誰もが、自分の感覚を「普通」だと信じている。自分の感覚は、自分にとって”一番身近で、一番なじんでいるもの”だから、それが「普通」に見える。

だから「普通こうするよね」という言葉は、言った方は特に悪意を持っていないことも多い。ただ、自分の感覚が”多数派”の感覚だと思っていて、そのまま口に出している。でもそれが、受け取る方には刃になることもある。

あなたはずれている、という意味に聞こえるから。

「普通」が通じない時の戸惑いは、単純な傷つきじゃないよね。自分が間違っているのか確かめる方法もなくて、でも相手が正しいとも言い切れなくて、何か大きなものを掴もうとしているのに手が届かない感じ。

……そもそも、私たちが振り回されているその「常識」とか「普通」って、一体どこから来ているんだろう。

常識とは何か?共有された見えない前提

よく考えると、不思議な現象。誰も正式に決めていないのに、多くの人が同じように動いている。明文化された規則があるわけでもないのに、破った瞬間に「おかしい人・変な人」扱いされる。常識というのは、そういう妙な力を持っている。

その正体を掴もうとすると、最初に一つ、前提を外す必要がある。

常識は「正しい」から存在するわけではない

たとえば、麺をすする音について考えてみる。

日本では、音を立てて食べることはそれほど咎められない。むしろ美味しさの表現として受け取られることもある。でも別の文化圏では、同じ音が明確にマナー違反になる。どちらが本当に正しいのかと考えてみると、答えが出てこない。

麺をすすることに、本質的な善悪はないから。

赤信号で止まることだって、少し似た構造がある。もちろん交通ルールには法律や罰則もある。でも安全が成り立つのは、みんなが赤で止まると知っているからでもある。

正しさより先に、「共有」がある。

常識が機能しているのは、それが真実だからじゃない。

その場にいる人たちが、”同じ前提”を持っているから成立している。

正しいから広まったんじゃなくて、広まったから正しそうに見える、という方が実態に近いのだろう。

そう考えると、国や地域や世代によって「普通」がこれほど違う理由が、少し腑に落ちてくる。みんなが違う集団の中で、違う前提を共有してきたから。それだけのことなんだよね。

私たちが持つ「見えない台本」

じゃあ、誰がその前提を決めたのか。

……誰でもないし、全員でもある、というのが正直なところかな。

たとえばエスカレーターの立ち位置。どこかの偉い人が決めたわけじゃない。明確な起源は分からないけれど、おそらく誰かの”小さな配慮や習慣”があって、それを見た人が”真似”して、気づいたら”みんなやる”ようになって、やがて”説明しなくていい当たり前”になった。

有給申請の書き方も、リモートワーク中の連絡頻度も、大体そういう流れで育つ。誰か一人の決定じゃなくて、その場にいる人たちが日々の行動を重ねながら、無意識に作り上げていくもの。そしてそれが次の人へ引き継がれていく。

舞台の台本みたいなもの、とでも言えばいいのかな。同じ舞台に立っている人同士は、台本を見せ合わなくても動ける。どこで頭を下げるか、どのトーンで話すか、どれくらいの距離感で接するか。言葉にしなくても、なんとなく通じる。

それが機能しているのは、同じ台本を共有しているから。

ただ、この台本には一つ厄介な特徴がある。見えないんだよね。

自分がどんな台本を持っているか、普段は意識しない。意識しないまま動いていて、違う台本を持った人と出会った時に初めて、「あれ、なんか噛み合わない」となる。

法律・ルール・マナーとの違い

法律は明文化されている。破れば、客観的な処罰がある。判断が揺れる余地は、常識に比べるとずっと小さい。

マナーも、ある程度は言語化できる。食事中の姿勢、順番を守ること、人に配慮すること。「こういう場ではこうする」という形で説明できることが多い。

常識は、その二つとは少し違う場所にある。

明文化されていないのに、みんながなんとなく従っている。そしてそれを破ると、ルール違反として指摘されるのではなく、「この人は話が通じない」「人としてどうかと思う」という評価になる。

面白いのは、明文化されていないからこそ、”解釈が人によってずれる”ことだよね。同じ「社会人としての常識」という言葉を使っていても、そこに何が含まれているかは、育った環境や経験によってかなり変わってくる。

ルール違反なら「どの条文に違反したか」を確認できる。でも常識のズレは、そういう照合ができない。だから話がこじれやすい。

「いや、それは常識だから」

「でも私は知らなかった」

「それ自体が非常識だ」

という、終わりのない往復になっていく。

……明文化されていないのに法律のように扱われる。それが、常識が一番厄介な理由なのだろうと思う。

なぜ私たちは常識を手放せないのか

常識が「正しさ」ではなく「共有」によって成立していると分かった上で、でも実際に手放せるかというと、そう簡単な話でもない。「常識を疑え」という言葉は聞こえがいいけど、じゃあ今日から全部疑ってみようとすると、おそらく一日が終わらない。

なぜ手放せないのか。それは常識が、私たちにとって相当便利な道具だからなんだよね。

社会を動かす省エネ装置

レジに並ぶという行為を、解体してみる。

なぜ後ろに並ぶのか。なぜ割り込んではいけないのか。なぜ順番通りに進めるのか。これらを毎回、一から考えて、交渉して、合意してから動く、という世界を想像するとどうなるか。コンビニのレジ一つで、たぶん十分以上かかる。

挨拶もそう。初対面の相手に「おはようございます」と言う理由を、毎朝説明しなければならないとしたら。電車の中で静かにしている理由を、乗るたびに議論しなければならないとしたら。

考えただけで、疲れるよね。

常識というのは、その無数の判断をあらかじめ済ませておく仕組みなんだよ。「この場ではこう動く」という前提が共有されているから、毎回考えなくていい。エネルギーを別のことに使える。

医療の現場や、災害対応の現場では、これがさらに切実になる。「次に誰が何をするか」が瞬時に共有されている環境では、その共有前提が人の命に直結する。常識や暗黙の了解が単なる慣習ではなく、機能として不可欠な場面がある。

縛られているように感じる時でも、実は日々の無数の選択を常識に任せることで、かなりの部分を楽にしてもらっている。

そういう側面は、あまり意識されない。

「言わなくても通じる」が生む安心感

効率の話だけじゃない。

言葉も文化も全く違う場所にいると、気を張り続けることになる。次に何が起きるか読めない。相手がどう動くか予測できない。それ自体は刺激的でもあるんだけど、ずっと続くと消耗する。帰国して、いつものコンビニに入った瞬間のあのホッとする感覚は、そういう緊張が解けた時のものだよ。

言わなくても分かる、という状態は、思っているより深いところで人を安心させる。

初対面でも挨拶を返してくれる、順番を守ってくれる、最低限の礼儀がある。そういう前提があるだけで、相手が次にどう動くかを大体想定できる。予測できる世界にいることの安心感は、効率とはまた別の話で、もっと本能に近い部分に触れているのだろう。

阿吽の呼吸で仕事が進むチームにいる時の居心地の良さも、たぶんそういうことだよね。言葉を重ねなくていい。説明しなくても通じる。それは単に楽というより、どこかで”安堵”している感じがある。

人は効率のためだけに常識を求めているわけじゃない。次に何が起きるかが「読める世界」にいたい、という感覚が、かなり根っこの方にある。

その渇望が強いほど、それが崩れた時の反応も大きくなる。

自分の常識が「絶対」に変わる時

便利な道具は、使いすぎると道具だということを忘れる。

常識も同じで、あまりに自然に使い続けていると、あるタイミングから「自分が持っている前提」ではなく「世界の正しい姿」のように見えてくる。そこから先は、少し話が変わる。

人は自分の常識を事実だと思い込む

魚は、水の中にいる間、水を意識しない。

人間も似たようなもので、”自分が依存している前提”は、普段ほとんど見えていない。海外に行ったとき、転職したとき、結婚して相手の家族と接したとき、それまで当たり前だと思っていたことが急に「あれ、これって当たり前じゃないのか」と見えてくる。異なる前提と接触した瞬間に、初めて自分の前提の輪郭が見える。

普段はそれがない。

だから、私たちは世界を「ありのまま」見ているつもりでいる。でも実際には、自分の中にある前提というレンズを通して見ている。レンズがあることを忘れているから、違う見え方をしている人を前にした時、「考え方が違う」のではなく「事実を歪めている」と感じてしまう。

家庭環境、育った地域、学校、職場、成功体験、所属してきたコミュニティ。それぞれの場所で少しずつ染み込んできた前提が積み重なって、今の「自分の普通」になっている。選んだ感覚はあまりない。

気づいたらそうなっていた、という方が近い。

その前提を「自分が選んだ価値観」として意識している人は、案外少ないのだろう。ほとんどの場合、前提は価値観ですらなく、もっと手前の「事実認識」として処理されている。だから違う認識を持つ相手を見ると、価値観の違いとしてではなく、事実を間違えている人として見えてしまう。

全員が「自分は正しく見ている」と思いながら、それぞれ違うものを見ている。

……少し不思議な光景だよね。

文脈が消えて言葉だけが残る

常識には、生まれた理由がある。

終身雇用も年功序列も、かつてはそれなりに機能していた。高度成長期の日本では、会社に長く居続けることに意味があったし、経験年数と能力がある程度比例していた時代の話でもある。「会社に尽くせ」「上には従え」という前提は、その文脈の中では一定の合理性を持っていた。

でも環境が変わった。

産業の構造が変わり、技術が変わり、働き方の選択肢が変わった。その変化に合わせて前提も更新されればよかったんだけど、言葉だけが残ることがある。合理性という根っこが消えているのに、「常識」という形だけが立ち続ける。

手作り至上主義も、たぶんそういうことだよね。道具が少なかった時代には、手をかけることが愛情や質と直結していた。今は道具が変わっても、「手をかけないのは気持ちこもってがない」という言葉が残っている場合がある。

そういう状況の中で、”古い台本”に合わせられないことを気にする。努力が足りないのか、自分がおかしいのか、と。でも舞台の方が変わっているのに、古い台本だけが残っているとしたら、噛み合わなくなるのはむしろ自然なこと。

それを見極めるのが難しいのは、台本が「見えない」から。

個人のルールが常識になる時

もう少し小さい話もある。

「10分前には到着すべき」という感覚を持っている人がいる。それ自体は、その人が経験の中で作ってきた、”個人的な時間管理”の習慣だよね。遅れて迷惑をかけた経験があるとか、早めに準備することで落ち着けるとか、そういう積み重ねから来ているはずで。

でもある時点から「社会人として10分前は常識だ」という言葉になって、他の人へ向かう。

個人の経験則が、社会全体のルールに格上げされる瞬間がある。しかも本人は、そこに気づいていないことが多い。自分が長年そうしてきたから、もはやそれが「普通」に見えている。そして「普通」だから、なぜ相手が従わないのかが理解できない。

「常識的に考えて」という言葉が出てくる時、その裏にあるのはたいてい、説明が難しい”個人の感覚”なんだよ。説明できないから「常識」という言葉を主語にする。そうすることで、個人の好みが社会全体の基準に見えてくる。

そして受け取った方は、「常識」という言葉に反論できなくなる。

個人の意見なら議論できる。でも社会全体の基準として提示されると、異議を唱えること自体が「非常識」になってしまう構造がある。……あの理不尽さは、そこから来ているのだろう。

常識のズレはなぜ人格の問題になるのか

ルールを破った人に対しては、「ルールを守ってください」と言う。人格の話にはあまりならない。

でも常識が通じない相手に対しては、「思いやりがない」「人としておかしい」という話になりやすい。同じ「前提から外れた行動」なのに、受け取られ方がかなり違う。

常識は「言わなくても通じる」安心感の土台になっている。その前提が共有されているから、初対面の相手でも、ある程度どう動くかが読める。予測できる世界が成り立っている。

その前提が通じない相手と出会った時、起きるのは単なる「手順の不一致」じゃなくて、「私が信じていた世界の安全性が崩れる」という感覚に近い。脅威として処理されてしまう。だから反応が大きくなる。

それに、もう一つある。

これまでその常識を守るために払ってきたものが、人にはある。

我慢したこと、合わせてきたこと、諦めたこと。その積み重ねがあるから、何でもなさそうにそれを破っている相手を見ると、ある種の不公平感が生まれる。自分は払ったコストを、相手は払わずに済んでいるように見える。そしてその感覚が、怒りをさらに大きくする。

努力が無意味になるような、自分が信じてきたものが崩れるような、そういう恐怖と不公平感が混ざって、常識のズレは人格攻撃へ飛躍していく。

常識を破った相手を激しく責める人が、必ずしも攻撃的な性格をしているわけじゃない。自分の世界の安全性を守ろうとしている、自分のコストを否定されたくない、という切実さがある。

もちろんそれが、相手を傷つけることへの免罪符にはならないけれど。

常識のズレとどう向き合うか

常識の正体と、それが暴走していく流れが見えてきた。じゃあどうすればいいのか、という問いが自然に出てくるよね。

ただ、その問いへの答えとして「こう生きよう」とか「相手を理解しよう」みたいな話をするつもりはないんだよね。ズレという現象そのものを少し違う角度から眺めてみると、見え方が変わることがある。

「常識を疑え」という極論

「すべての常識を疑え」という言葉がある。

言いたいことは分かるし、固定した前提を一度外して眺めてみることには意味があると思う。

でも、すべての常識をいちいち疑いながら一日を過ごすとどうなるか。

挨拶する理由を考え、列に並ぶ根拠を確認し、敬語を使う必然性を都度検討する。……それだけで、たぶん午前中が終わる。

常識は判断コストを省く道具でもある。全部手放したら、生活のあちこちで一から交渉が必要になる。それは自由というより、単純に消耗する。

「疑え」という言葉が本当に意味しているのは、全否定じゃないのだろう。

自分が持っている前提が「絶対の真理」ではなく「今いる場所でだけ有効な台本」だと知っていれば、それだけで使い方が変わってくる。台本に縛られているのではなく、台本を持ちながら動いている、という感覚。

常識を打ち破るヒーローになる必要はなくて、ただ「あ、これは今の自分には合わない台本かもしれない」と少し距離を取れればいい。

常識のズレはなくならない

そもそも、ズレがなくなることはないと思う。

一人の人間の中にも、複数の台本が存在しているから。会社では上司を立てる常識で動いて、家に帰れば対等な家族の常識で動いて、友人といる時はまた別のトーンになる。SNSでの距離感も、リアルな関係とはまた違う空気がある。

一日の中で、何種類もの台本を切り替えながら生きている。

それが当たり前になっているから意識しないけど、実はかなり複雑なことをしているんだよね。

家庭の常識、

会社の常識、

業界の常識、

地域の常識、

世代の常識。

それぞれが少しずつ違っていて、しかも”重なり合っている”。私たちは単一の「社会」の中に生きているというより、無数の小さな共同体を日々行き来している。移動するたびに、台本が変わる。

だからズレは、例外じゃない。

台本が違う場所へ移動すれば、必ず何かが噛み合わなくなる。異なる共同体を行き来していれば、自然と起きることなんだよね。

「またトラブルが起きた」と捉えるのか、「台本が違う場所に来たんだな」と捉えるのかで、気持ちはかなり変わってくる。

どちらが正しいかより前提をすり合わせる

結婚した二人が、バスタオルを何回使ったら洗うかで揉める、という話がある。笑い話のようでいて、あれは割と普遍的な現象だよね。(私は一回で洗う派)

どちらも自分の家庭で育ってきた「普通」がある。それが全然違う。そして最初は、どちらが正しいかという話になりやすい。でもどちらが正しいかを証明する方法は、実はどこにもない。お互いの家庭の台本が違うだけだから。

それでも多くの場合、しばらくすると「我が家ではこうしよう」という新しい前提が生まれてくる。明示的に話し合うこともあれば、なんとなくそうなっていくこともある。

転職した先でも、移住した先でも、似たようなことが起きている。最初は摩擦があって、でもそのうちにその場所なりの前提が少しずつ形成されていく。

ただ、これが綺麗に成立するとは限らない。

対話の意思がない相手との間では、”すり合わせ”は難しい。立場の強弱があれば、一方の台本がそのまま押し付けられることもある。

すり合わせという動きは、ある程度対等な関係や、お互いの意思が前提にある。

そうじゃない場合まで、理解し合えるはずだと描くのは、少し現実から離れてしまうよね。

それでも人は、ぶつかりながら、少しずつ新しい台本を作り直して生きていく。完全に分かり合えなくても、その場所でなんとかやっていくための前提をすり合わせながら。

……そういうものが、社会というものを動かしているのだろう。

私たちはそれぞれの常識を生きている

「常識だろ」と言われた瞬間の、あの言葉に詰まる感じ。自分がおかしいのか、相手がおかしいのか、どちらとも言い切れないまま後味だけが残るあの感覚。

あれは、正悪の判断をしようとしていたから出てきた戸惑いだったのだろう。どちらが正しいかを決めようとしていたのに、決める方法がどこにもなかった。

あの人は、自分の台本を持っていた。

私も、自分の台本を持っていた。

どちらの台本も、それぞれの環境の中で少しずつ作られてきたもので、どちらが本物でどちらが偽物かという話じゃない。ただ、台本が違った。それだけのことだったのかもしれない。

もちろん、そう分かったからといって何もかもが解決するわけじゃないよ。台本が違えば摩擦は起きるし、分かり合えないまま終わることもある。すれ違ったまま、お互いの台本を一度も見せ合わずに関係が終わることだってある。それは現実としてあるのはしょうがない。

ただ、「どちらが正しいか」を証明しようとする消耗からは、少し降りられるのかもしれない。

私たちはそれぞれ、違う場所で作られた見えない台本を手に持ちながら、同じ社会の中を歩いている。家庭で染み込んだ前提、学校で身についた振る舞い、職場で積み重ねた感覚、生きてきた時代の空気。それらが混ざり合って、今の「自分の普通」になっている。

誰もが自分のレンズを通して世界を見ている。

そのレンズが「正しいレンズ」だと信じながら。

……それって、少し面白い光景だよね。全員が違うレンズを持って、全員が「これが普通だ」と思いながら、同じ場所を歩いている。衝突もするし、思いがけず通じ合うこともある。台本を書き直すこともあれば、古い台本を最後まで手放せないこともある。

常識は、人をつなぐこともあれば、すれ違わせることもある。

変わっていくこともあれば、文脈を失ったまま残り続けることもある。

絶対の正解でもなく、捨てるべき悪でもなく、私たちが共同生活の中で無意識に作り上げてきた、見えない前提の集まり。

それを少し引いた場所から眺められるようになると、「常識だから」という言葉に振り回される回数は減るのかもしれない。自分の台本にも、相手の台本にも、少し余白が生まれる。

……たぶん、そういうことなんだと思う。

【こちらの記事も読まれています】

「みんな言ってる」って誰のこと?「みんな」の正体
なぜ「みんな」という言葉はこれほど人を追い詰めるのか。「みんな言ってる」の「みんな」はどこにも存在しません。少数のサンプルを全体と勘違いをやめれば、周囲の視線は怖くありません。事務的に受け流す思考法と具体的な会話術を網羅。
【哲学】「みんな同じ」は理由になるのか?「多数派の専制」への抵抗論
なぜ「みんなと同じ」を強要されるのか?その心理的メカニズムと、論理的な反論方法を完全解説。精神論は一切なし。明日から使える「守りの論理」と「攻めの実践術」で、同調圧力に流されない、自律したあなたに変わりませんか?
普通とは何か?それは「多数決」に過ぎない
「普通」という幻想の正体と、自由になるための全知見。多数決に過ぎない常識の無力化、擬態による社会参加、言葉の受け流し方まで徹底解説。「普通」という言葉の裏にある「脳の省エネ」を暴きます。自分を削るのをやめ、納得感のある人生を選び取れます。
なぜ社会は「自分事」を求めるのか?
心の容量には限界があるのに、自分事・当事者意識を求められる。職場、SNS、メディア。それは、複雑化したものの管理コストを個人に外注する構造にある。「自分事として捉える」ことは絶対的な善なのか。何を拾い、何を流すか。
【幸せと豊かさを求めて】人類永遠の問いを今、深掘る
物質的な富に限らず、豊かさは様々な部分に現れる。モノを買っても、収入が増えても、満たされないことがある。豊かさにはきっと「法則」がある。人は何によって満たされ、幸せになるのか。幸せは偶然の感情ではなく、「再現できる部分」がある。
Lpanda
Lpanda

Lパンダと申します。

【汝、己の憩いをなんと見る】をテーマに、

「自分にとっての幸福とは何か」

という哲学をぜひ考えてもらいたいとの思いで探求・発信しています。

様々な知恵や視点を知り、「物事のとらえ方・考え方」にたくさんの選択肢を持ってもらえるように、情報発信を行っています。

Lpandaをフォローする
全ての記事探求考え方
シェアする
Lpandaをフォローする
タイトルとURLをコピーしました