朝の満員電車で、何百人もの人がほとんど言葉を交わさず、隙間なく並んで、同じようにスマホを見ている。
毎朝見ているから、何とも思わない。
でも、もし今日初めてこの星に降り立った人が、この光景を見たらどうだろう。少し奇妙で、どこか不思議な光景に映るかもしれない。
……そう考えてみると、「普通」って不思議だ。毎日見ているものほど、そこにあることすら意識しなくなる。
文化って、案外そういう名前のついていない細部に宿っている。
知らない文化に触れたとき、私たちは相手の「変わったところ」を見ているつもりになる。けれど、その違いを見つめているうちに、自分が何を当たり前として暮らしてきたのかも、少しずつ見えてくる。
視野が広がる、って言葉をよく使うけれど、実際に何が広がっているんだろう。
知らない文化に触れるとは、何に出会うことなのか

知らない文化に触れる、って言葉には、なんとなく重たい響きがついてくるよね。教養とか、勉強とか、そういう言葉とセットで語られやすいから。でも実際に足を運んでみると、出会うものはもっと小さくて、もっと手のひらに収まるくらい具体的だったりするんだよ。
文化は、暮らしの細部に宿っている
市場を歩いていて、記憶に残るのは立派な建物より、屋台の店主がスープをビニール袋に注いで、輪ゴムでキュッと縛る、あの手つきだったりする。
慣れた手つき。迷いのない動き。
ガイドブックの解説より、よっぽど雄弁だったりするんだよね。
食堂のテーブルに、ティッシュ箱がそのまま置いてある。それだけのことなのに、なんだか妙に印象に残る。歴史的建造物の前で聞いた説明は、翌日にはもう半分くらい抜けているのに、あの光景だけは、なぜかくっきり覚えていたりするんだよ。
スーパーに寄ったときも、そう。洗剤のパッケージがどう棚に並んでいるか、レジ袋がどう手渡されるか。そんな些細なところに、「違う生活の世界に来た」っていう実感が、いちばん鮮やかに立ち上がる。
文化って、記念碑や年表の中に保管されているものじゃないんだよね。
名付けられていない、日々の細かい選択の積み重ね。
誰も注釈をつけないまま、そこにただ息づいているもの。
……そういう細部に目が吸い寄せられたとき、人はたいてい、まず「へえ」って声を出す。うわ、変わってる。面白いな、って。
「珍しい」「面白い」から始めていい
初めて入る異国の食堂で、見たこともない色の調味料が並んでいたり、手でちぎって食べるパンが出てきたりすると、つい「うわ、何これ」って声が出るよね。理屈より先に、感覚がぱっと反応する。
香辛料の匂いに鼻をくすぐられる。看板の文字が、意味より先に模様として目に入ってくる。あの瞬間の高揚感。
ただ面白がっているだけじゃ、失礼なんじゃないか。表面だけ消費しているんじゃないか、って。でも、最初の一歩からリスペクトを背負い込む必要はないんだよ。
「珍しい」と思ったって、それでいいんだよね。
ただね。「面白かったね」で会話が終わって、その日の記憶がそのまま流れていってしまうこともある。あの調味料、結局なんだったんだろう。あの食べ方、なんであの形になったんだろう。
……そのまま流してしまうのは、少しだけ、もったいない気がするんだよね。
知らない文化の「違い」には、それぞれの前提がある

珍しい、で立ち止まっていられるのも、最初のうちだけなんだよね。しばらく眺めていると、今度は少しだけ違う問いが顔を出してくる。
どうしてこの人たちは、これを当たり前にやっているんだろう、って。
不便に見える。不思議に見える。ときには、行儀が悪いようにさえ映る。
でも、その奥には、自分にはまだ見えていない事情が、なにかしらあるんだと思う。
その文化では、なぜそれが自然なのか
屋台の隣の席で、指先だけでご飯を口に運んでいる人を見たことがある。スープをご飯全体にかけて、手早く混ぜて、迷いなく食べていく。……熱くないのかな、って一瞬思ったよ。
でも、その動きを眺めていると、迷いのなさに気づく。ずいぶん慣れた手つきだな、と思う。
そこには、”私には見えていない理由”が、ちゃんとあるんだと思う。気候かもしれないし、食材の性質かもしれないし、もっと違う何かかもしれない。全部を言い当てられるわけじゃないけどね。
自分の中では、きちんとした食事にはスプーンや箸が必要、っていう感覚が、疑いようもなく根を張っていた。でも、その感覚を一旦横に置いて、その場の空気に身を寄せてみると、道具を挟むことの方が、少し遠回りに思えてくる瞬間がある。
不自然に見えていたものが、その文脈の中では、自然な選択として立っている。もし自分がその土地で育っていたら、たぶん同じことをしていたんだろうな。……そう思うと、さっきまでの「不思議だな」が、形を変えていく。
食べ方の違いなら、まだ受け止めやすいんだよね。目に見える理由を、なんとなく想像できる範囲がある。
でも、これが人との関わり方とか、時間の感覚とか、物事の定義とかに関わる話になってくると、同じようにはいかない気がする。そこには、もう少し別の筋が要るんだろうね。
同じ「大切」でも、表し方は違う
待ち合わせに、友人が三十分以上遅れてきたことがある。理由を聞いたら、途中で近所の人と会って、立ち話をしていたって。悪びれた様子もなく、あっさり言うんだよね。
胸の内側が、ざわっとする。時間を守る気、ないのかな。私は軽く扱われたのかな。
理由は、その人の性格かもしれないし、単にその日たまたま忙しかっただけかもしれない。でも、少し時間を置いて眺めてみると、もう一つ別の筋も見えてくることがある。
目の前にいる生身の人との会話を、時計の針のために打ち切ることの方が、よっぽど冷たい行為だと感じる場所もあるらしい、って。
「時間に正確であること」が敬意になる場所もあれば、「目の前の人を優先すること」が敬意になる場所もある。
どちらも、誰かを大切にしようとした結果なのかもしれない。ただ、それを表現する場所が違うだけ、なのかもしれないね。
ルーズだとか、無神経だとか。性格の問題だと片づけていたものの奥に、別の形の気遣いとかが隠れていることもある。……そう思えた瞬間、苛立ちが少しだけほどける。
気づけば、さっきまで相手に向けていた視線が、いつの間にか自分の方へ戻ってきている。
文化の違いが、自分の「普通」を浮かび上がらせる

その視線を抱えたまま、しばらく歩いていくことになる。時間を守ること。挨拶の仕方。声の大きさ。……自分が疑いもせずに従ってきたものたちが、急に輪郭を持ち始める。
なんでこんなに反応してしまうんだろう、って場面に出くわすたび、そこには相手のことじゃなくて、自分のことが映っていたりするんだよね。
違和感は、自分の基準を映す鏡になる
海外の長距離バスで、隣の乗客がスピーカーフォンにして、大声で家族とビデオ通話を始めたことがあった。動画も音を出したまま観てる。
……なんでマナー悪いんだろう。誰も注意しないのかな。
胸の奥が、じわじわ波立っていくのが分かる。
その苛立ちを、しばらくそのまま抱えていた。でも、ふと思うんだよね。この苛立ちの出どころって、本当に”相手”なのかな、って。
公共の場では、自分の気配を消して静かに過ごすべき。……そういうルールが、いつの間にか自分の中にしっかり根を張っていたんだよ。誰かに教わった記憶もないのに。当たり前すぎて、疑ったことすらなかった。
魚は、水の中にいる間、自分が水に浸かっていることに気づけない。自分の文化も、たぶんそういうものなんだよね。ずっとその中にいると、それが「文化」だってことすら見えなくなる。
相手の社会では、公共の場が生活や関係の延長線上にあって、会話を遮断する場所じゃないのかもしれない。……そう考えてみたところで、正直、あの音量が心地よくなるわけじゃないけどね。それはそれとして、苦手なままでいい。静かにしてほしいと思う気持ちは、正直持ったままだけど。
ただ、苛立ちの矛先を相手に向けたまま、非常識な人、で思考を止めてしまうのはもったいない。
その手前で一度、自分を覗いてみる。ああ、私はこんなルールを、絶対だと思って生きていたのか、って。
自分の中にこれだけ強固な”基準”があるって分かると、今度はそれを、自分の日常そのものに向けてみたくなる。
見慣れた日常を、外側から眺めてみる
平日の朝、駅のホーム。スーツ姿の人たちが、一言も発さずに、隙間なく体を滑り込ませていく。全員が同じ角度で、小さな画面を覗き込んでる。
……これ、今日初めてこの国に来た人の目で見たら、どう映るんだろう。
コンビニでは、店員さんが完璧な所作でお辞儀をして、客は無言でタッチパネルに触れて、会釈もなく去っていく。居酒屋では、誰からともなく「とりあえずビールでいい?」って、全員の注文をそっと揃えようとする。
普段は息苦しいとすら感じることもある光景が、少し離れて眺めた途端に、妙に整った、独特なリズムを持つ景色に見えてくる。誰も声高に説明しないルールの上に成り立ってる。
文化に触れるって、遠くへ出かけて珍しいものを探すことだけじゃないんだよね。むしろ、その視点を持ち帰って、自分の足元をもう一度眺め直すことでもある。
……そうなってくると、「文化を知る」って、海外の知識を増やすことだけじゃ、もう説明がつかなくなってくる。
視野が広がる、って気軽に使う言葉の中身が、まだちゃんと掴めていない気がする。
「視野が広がる」の先には、見方の増加がある

視野が広がる、っていう言葉。よく聞くし、自分でも使うことがあるけど、じゃあ”具体的に何が増えるのか”と聞かれると、案外はっきりしないんだよね。
知識かな、って最初は思ってた。でも、それだけでもない気がしてる。
文化を知るほど、「○○人だから」が見えなくなる
「あの国の人は自己主張が強い」とか、「あの地域は時間にルーズ」とか。そういう話を頭に入れた状態で現地に行くと、実際に出会う人が、驚くほど物静かだったり、几帳面に十分前から待っていたりすることがある。
あれ、って思うよね。イメージと、目の前の人が噛み合わない。
知識を増やせば増やすほど、答え合わせがうまくいくようになるのかと思っていたら、実際は逆だった。地域差、世代差、家庭環境、その日の気分。……見えてくる変数が多すぎて、最終的には「○○人だから」の一言では、誰ひとり説明しきれなくなっていくんだよね。
文化の知識を、相手を分類するための箱として使うと、目の前の人がすっと見えなくなる。そうじゃなくて、その人がそう振る舞うかもしれない背景の可能性を、自分の中にいくつか置いておくための道具として使う。
……そのくらいの距離感が、ちょうどいいのかもしれない。
文化を知る先にあるのは、正確な分類じゃなくて、簡単には分類できないと知ること。知っただけで自動的にそうなるわけじゃなくて、その知識をどう使うか、なんだろうけどね。
背景を想像できるようになると、たいていのことは受け止められる気がしてくる。でも、実際にはそうもいかない場面が出てくるんだよ。
理解することと、同意することは別でいい
家族の結びつきの強さで進路や結婚まで決まっていく文化とか、自分にはどうしても馴染めない食事の作法とか。そういうものに出会ったとき、頭では「これが彼らの文化だから」と分かっていても、胸の奥では、どうしても嫌だな、と感じてしまうことがある。
そのたびに、少しだけ後ろめたくなったりしてね。理解しなきゃいけないのに、って。
でも、理解することと、同意することって、別のものなんだよね。
私はそのやり方を選ばない。私の生き方には合わない。それでも、あなたがその環境で、その選択をする理由は分かる。自分は選ばない。でも、分からないわけじゃない。……それでいいんだと思う。
多様性を尊重するって、全部を好きになることでも、全部を取り入れることでもないんだよ。自分とは違う考え方が、別の事情の中で成り立っている。それを、ただ知っておくこと。それだけでいい。
自分の軸を明け渡さなくていい。好きなものは好き、選ばないものは選ばない。その線を保ったまま、相手の「なぜ」にだけ、そっと近づいてみる。……そのくらいの距離感の方が、案外長く続くんだよね。
無理に染まらなくていい。そう思えると、少し肩の力が抜ける。
そうやって視点を増やす感覚が掴めてくると、別に大きな旅に出なくても、今日のうちに、小さく試してみたくなってくるんだよ。
日常から、知らない文化に触れてみる

大きな旅に出なくても、視点を増やす体験は、案外近くで拾える。まとまった時間もお金もなくても、始められることって、思っているよりずっと多いんだよね。
食や言葉から、知らない世界を覗いてみる
近所にできたエスニック料理店に、ふらっと入る。運ばれてきた器は思っていたより深くて、小皿には見たことのない色のペーストがいくつか並んでる。……これ、現地の人はどうやって食べるんだろう。店員さんの手元を、つい目で追ってしまう。
辛い、美味しい。それで終わらせずに、もう少しだけ留まってみる。
どうしてこの一皿には、これだけ強いスパイスが要るんだろう。どうしてワンプレートに全部盛って、混ぜて食べるんだろう。……そこまで考えると、皿の向こうに、”その土地の暮らし”がうっすら透けて見えてくる。
言葉にも、同じことが言える。ポルトガル語のサウダージ。デンマーク語のヒュッゲ。日本語だと、いくつもの言葉を重ねてようやく近づけるような感覚が、向こうでは一語で済んでしまう。
その言葉があるからといって、その国の人だけがその感情を特別に大切にしてきた証拠、とまでは言い切れないけどね。ただ、自分がひとまとめにしていた感覚を、”別の切り取り方”で見せてもらえる。
……そう考えると、こっちにも似たようなものがあるんだよね。時雨とか、狐の嫁入りとか。同じ雨でも、名前の付け方一つで、見ている景色が変わる。自分の言葉にも、そうやって世界を細かく切り取ってきた痕跡が、ちゃんと残ってる。
海外の映画を観るときも、筋を追うだけじゃなくて、登場人物同士の距離感とか、部屋の明るさとか、そういう名もない細部に目を留めてみる。……パスポートがなくても、違う世界への入り口は、案外近くに転がっているんだよね。
身近な入り口でもここまで見え方が変わるなら、逆に、何度も海外を巡っているのに、あまり変わらない、っていうこともあるのはどうしてなんだろう。
触れた量より、「どう触れたか」が世界を変える
どれだけ多くの国を巡っても、「あそこは口に合わなかった」「電車が遅れて最悪だった」って、自分の物差しをそのまま持ち歩いているだけなら、旅先の数字は増えても、見え方はあまり動かない。
逆に、海外に出たことがなくても、近所の一皿とか、誰かとのちょっとした会話の中で、そんな受け止め方があるのか、って深いところで何かが動くこともある。
……この差を分けているのは、たぶん行った国の数じゃないんだよね。
同じ違いに出会っても、なぜ自分はそう感じたんだろう、相手にはどんな筋道があるんだろう、って一度だけ立ち止まれるかどうか。その一呼吸があるかないかで、その場で世界は一段広がったり、広がらなかったりする。
もっと遠くへ行かなきゃ、視野は広がらないんじゃないか。経験が少ない自分は、狭いんじゃないか。……そういう焦りが顔を出すこともあるかもしれない。でも、要るのは移動距離じゃなくて、立ち止まる一呼吸の方なんだと思う。
一つの違いを、ちゃんと味わう。それだけで、案外どこにいても世界は広がっていく。
そうやって一つひとつの違いを丁寧に見ていくと、「自分にとっての普通」が、世界の普通とは限らないんだなって思えてくる。
世界には、いくつもの「普通」がある

知らない国の映画を観終えて、部屋の明かりをつけた瞬間とか、異国の料理店を出て、いつもの夜風に当たった瞬間とか。見慣れたはずの道路の白線とか、信号の光とか、通り過ぎる車の音まで、さっきまでとほんの少しだけ違う感触。
あの感覚、なんだろうね。
「きちんとしなきゃ」「空気を読まなきゃ」って、気づかないうちに自分を縛っていることがある。でも、地球の反対側では今この瞬間も、まったく違う時間の流れ方の中で、誰かが朝の光を浴びて、当たり前の顔で一日を始めてる。
それを思い出すだけで、少しだけ考え方に余白ができる。全部を絶対だと思わなくてよくなる、というか。
自分の生き方を、捨てる必要はないんだよ。時間を守ることも、空気を読むことも、大切にしたいなら、そのままでいい。ただ、それが世界のすべてじゃなくて、数ある「普通」のうちの、ひとつのローカルなやり方だって、心のどこかに置いておく。
日本の静けさも、時間への几帳面さも、窮屈なものとして片づけるにはもったいない。見知らぬ人同士が、なるべく摩擦を減らして共存するために育ててきた、”ひとつの配慮の形”でもあるんだよね。
……別の場所には、別の不便さがちゃんとある。どちらが正しいという話でもない。
いつもなら苛立っていた場面で、ほんの少しだけ立ち止まれる。自分の普通を、疑いようのない正解じゃなくて、ただの普通として眺められる。知らないものを前にしたとき、すぐに判断せずに、どうしてだろう、って思える。
……そのくらいの変化で、十分なんだと思う。
スーパーの棚で見かける知らない国の調味料や、ふと耳に流れてくる異国の音楽や、街ですれ違う誰かの後ろ姿に。まだ知らないどんな普通が、そこにあるんだろうって。
そのくらいの視線を、少しだけ、遠くへ向けておく。
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